忍者ブログ
くしゃみしたらヘッドホンはずれた
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

夏休みもらって高知に帰ってました(いつも思うけど別に高知は私の実家ではないので帰っていたと言うのはおかしいのだが他に言い様も無い)。
あちらでは今回時間が無くて映画を観れなかったので、何か観たいよ何か観たいよー。という思いが溢れそうなのをケータイから感想を書く事で精神的均衡を図ります。
ネタはまんをじして「おろち」!!

まず言いたいのはですねみなさん覚えてらっしゃいますでしょうか、当ブログで赤ん坊少女映画化に触れた際に私はこう書いていたのです。

「おろちとか映画化されないかなー。あと14歳」


すげ!大当たり!

つーことで、さながら人の営みをずっと見続けてきたおろちと対を為すかの如く未来を見通してしまった私がこの映画について書かずして一体誰が書くというのか!とか言いながらロードショー見逃してずるずると手を出すのが遅くなり…まあ今月の頭に漸く観たわけですが。


まず原作「おろち」ですが、これは楳図かずおのホラー漫画で、おろちという名の人ならぬ少女が、人間の生活に関わり、彼らがその執念や欲望、愛憎によって翻弄される様を見届けては去って行く、その繰り返しを連作で描いた作品。その中の「姉妹」という話がこの映画の下敷きになっています(「血」という話をそこにミックスしているらしいのですが私は「血」を読んでないので省略)。

で、「姉妹」という話は 呪われた家系に生まれた美しい姉妹の悲劇を描いた名エピソードなんですが…これネタバレになるよなあ。まあ仕方ないか。
呪われた家系というのは、一定の年齢になるとその美しい容姿が醜く崩れ始めるというもの。原作では「18歳を境に」という設定でしたが、映画版では30代前後ということになってました。
美貌に恵まれながら、その美貌が失われる日を今か今かと恐れながら生きている姉妹。
しかし、ある日驚愕の事実が明らかになる。

その事実とは、妹が貰われ子だったということ。

それが判明した日から、姉妹の関係は目に見えて狂い始めるのでした。

11.jpg

とにかく、この映画の出色は姉・木村佳乃と妹・中越典子のキャットファイト。運命共同体であった筈の妹が、ある日突然に一人だけ地獄から掬い上げられる様を間近に見せつけられた姉がきたす狂気と、それを甘んじて受け入れるしかない妹。愛憎入り交じった連日連夜の闘いはとにかく圧巻の一言です。
妹の髪を引っ張って覆いかぶさり

お前だけが!

お前だけが!

お前だけが美しいままだなんて!!!!

と叫ぶ木村佳乃が最高。

更に映画オリジナルとして書き加えられている設定があって、それは姉妹の母がかつての大女優であり、姉妹にも幼少時から芸能の教育を施していたというもの。その結果なかなか芽が出なかった姉と違い妹は早熟の才能を発揮してちびっこ歌手になり、一世を風靡したが、やがて人気がすたれ今は反対に人気女優となった姉のマネージメントをしています。
この設定により姉妹間にある感情の捻れに凄味が増し、衝撃のエンディングにもより迫力が…いやいや。これ以上は言えませんが!


とにかく出演している女性陣、木村佳乃と中越典子、それからまばたきもせずに「新宿烏」(楳図かずお作詞)を歌い上げるという珍シーンを演じ切ったおろち役の谷村美月が素晴らしい。

5.jpg

それからジャケットの写真が美しい!と思ったら蜷川美花の撮影らしいと聞いてびっくり。あの人の仕事あんまり好きじゃないけど、あれは良い。

いかにも色物映画といった装いの作品ではありますが、侮るなかれ。夏の夜にはぴったりの、耽美ヒューマンホラーに仕上がっております。
往年の大女優を演じた木村佳乃のクラシックな美しさと、今までに無いエロティックな匂いをちらりと匂わせる中越典子。そしてろくでもない女たちに振り回される無表情な美少女谷村美月すべてよし!
もっと評価されるべき映画だと思う。
おすすめ!



あ、14歳は連続ドラマでお願いします(あきらめていなかった)。
PR
久方ぶりの更新!てほど!では!ない!いやールーキーズの後に口直し的な意味で見てばっちり面白かった「おろち」についても書きたかったんですが書いてないし…しかし最新記事がルーキーズって…最近は見事に邦画ばっか観てるなあ。
昨日飲んで帰って来て寄ったWAM(近所のレンタル屋さん)で借りてきて、そのまんま風呂でキリの良いとこまで観よう。と思ってたらあれよあれよのうちに最後まで観てしまった。

友人曰く 「これで井筒監督はいつ死んでも大丈夫」。勝手に死なすな。としか思ってませんでしたが、いざ観てみて納得。堂々たる代表作です。

舞台は1960年代後半の京都。在日朝鮮人の女の子に一目惚れした主人公は、彼女と距離を縮めていく過程で日本人と在日の間にある歴史的因縁に触れていく。

社会のタブーと言われる問題に切り込みながらも、あくまでエンターテイメントとして楽しく、観客を笑わせ、泣かせる。これは映画の理想的な形の一つだと思う。

以前どこかで言ったかもしれないが、日本という国は内戦の火種とされるような要素の極端に少ない国だ。基本的に信仰心は淡白だし、種族間のいさかいも殆んど無い。農耕民族ゆえか性格も温厚で激するところ少なく、良く言えば穏やか。悪く言えば事なかれ主義。
そんな国が内包する数少ない火種の内の一つ、「在日朝鮮人問題」を真正面から扱った本作。やはり内容からいって多少の説教臭さが入るのは致し方無いんだけど、そんなもんを吹き飛ばしてあまりある勢いを有しているのが、朝高(朝鮮高校)の学生らと地元・京都の高校生が繰り広げる喧嘩シーン。街中で、ボウリング場で、スナックで 顔を合わせれば殴り合い、飛び蹴り食らわしてパッチギ(頭突き)をかます。
自分自身の、決して幸せとは言えない境遇を笑い飛ばすかのように、縦横無尽に暴れまわる彼らが、何と魅力的に映る事か。やってることはただの(それも相当痛そうな)喧嘩なのに、この清々しさは間違いなく、若い俳優たちの瑞々しい演技によるものだろう。
朝高の頭、アンソンを演じる高岡蒼甫に、相棒役の波岡一喜。ライバル校の切り込み隊長は桐谷健太。
また主人公の塩谷瞬、親友を演じる小出恵介、主人公が一目惚れする在日の少女は当時新人の沢尻エリカ。アンソンに仄かな恋心を寄せる真木ようこも良い味を出している。
誰もかも皆素晴らしい。
彼らの構築した世界観には、実際に生活している人間たちの匂いさえ感じられる。演技力もさることながら、井筒監督の的確なディレクションの賜物だろう。

翻ってこの作品のテーマはと言うと、私見では劇中で在日一世の男が主人公に向けた一言に尽きるのではないかと思う。
主人公が親しくしていた少年の葬儀での言葉だ。彼は主人公に、いかに自分たち在日朝鮮人が酷い目に遭ったか、唐突に70万人もの朝鮮人が、日本まで連れてこられた挙げ句に劣悪な環境での生活を強いられ、厳しい労働環境に置かれているか、を語った上でこう語る。

「お前たち、日本人のガキは 教えてやらんと、何も知らんままやろう。…バカタレが。お前らとわしらは、違うんぞ。」

これが本作の基盤を支えるテーマなればこそ、多少の説教臭さにも納得が行くというものだ。
そして実際その通り。事なかれ主義の日本人は、自国の歴史に複雑に絡み合っていて、今現在も根深く残っている問題にすら無頓着だ。私含め。
その意味で、本作は確かな意義を持った映画と言えるだろう。

恐らく思想の偏りや偏見も大いにあるのだろうが、戦後の日本に生きる者としては、今この時代に見るべき、素晴らしい映画だと思う。とにかく見てみて!これを見た女子はもれなくアンソンの男っぷりにメロメロになること必至!



げっ
超安いじゃん…

買っちゃいそうだなあ…


関連エントリ

音楽も良いよ!!
映画音楽って素敵やん?
若き日のアンソンはインテリ系眼鏡っ子(ただし偏差値は低い)でした
やっぱ良いわ 「青い春」
舞台が1968年だろうが2006年だろうがやってることは一緒なのね
偉さうな事を言ふのはやめやう 「クローズZEROⅡ」
今思うとパッチギメンバー勢ぞろいですね
役者に罪は無い…「ROOKIES 卒業」
井筒監督の最新作はこちら(disってます)
おお どうしたことだ 「ヒーローショー」
ドラマを見ていない私ははなから楽しむ権利の無い人間であるところを、お金を払った事に免じて何とか入れてもらったのだから、多少つまんなくても文句を言えるような立場ではないのだぞ、という事を肝に銘じて見てきました。
私立二子玉川学園高校通称ニコガクの野球部(九割不良)を熱血教師川藤が甲子園に連れてくよ!って話。(↑あらすじ)

んで、困っちゃうのは 別に憤る程酷い出来ってわけでもないけど間違いなく面白くはないという点。
何て説明して良いか分からないんですがとにかく退屈であるというか。
で、これは間違いなく私がドラマシリーズを見てないから、ではないと思うんですよね…

例えば試合中、次の打者はストライクストライクホームランだとか、ファールファールヒットだとか、球筋とスイングが見ずとも分かるわけです。これは別に私が野球マニアだからではなく。背後に一徹がいるからでもなく。要するに分かりきった展開をなぞってるんですね。まあこの試合にニコガクが勝つのが分かりきってるのは仕方ないっちゃないんだけど、それにしてももう少し観客の興味を惹く展開には出来なかったのかと!あまりにも捻りがなさすぎる。早送りしたくなったわ。


あとね。個人的に何か許せないなあって思ったのはですね。あ、こっからネタバレ。





瑛太って人はなかなかの演技派だなあ。最近特に感じるんだけど、日本の若手俳優って決してレベル低くないですね。

住民1500人。その半分が老人という過疎の村で、たった一人の医者として住民の健康を守ってきた伊野(笑福亭鶴瓶)。そこに研修医として訪れた相馬(瑛太)は、伊野と住民逹の絆を目の当たりにして感動し、研修を終えたらこの村で働きたいと伊野に告げる。しかしそこで伊野から返って来たのは、相馬にとって意外な言葉だった。


予告を一度でも観ればオチが分かる映画なので、どうするんだろうと思っていたが。いやー、実際私がオチだと踏んでいたオチはオチでも何でも無かったよ。やられた!
この映画が描きたかったのはそのオチ(らしきもの)の先にある事だった。

前半の、あまりによくできた「田舎の村で働く医師と住民の心暖まる交流」が浮いてないのも凄い。これは絶妙に挿入された笑いどころと、笑福亭鶴瓶の演技とも思えない演技(褒めている)のおかげだ。それを脇で支える瑛太、余貴美子も良い。


人間は出来るだけロマンチックな展開を求める。
ロマンチックな展開とは、型通りの展開だ。型通りの展開とは、つまり人を裏切らない展開である。
人々が「こうであってほしい」と思う展開である。

「こうであってほしい」を「こうである」と信じる為に、人は日々さまざまな事を無意識に視界から外している。それを知ったら「こうではない」事に自分が気付かねばならないから。

その為には、懺悔の声をさえ遮るのだ。意識的にしろそうでないにしろ。
罪悪感と無力感と、重責に押し潰されそうになっている人の懺悔の声にさえ耳を塞ぐのだ。
出来上がるのは共犯者だ。主犯を助けて共犯者となるのではなく、主犯に罪を押し当てがうことで共犯者となる人々である。

「誰も、話を聞いていない…」

絶望した刑事の呟きに、観ている我々もまた胸を貫かれる。
観客もいつの間にか共犯者になっていたのだ。
あの幸せな日常を、少しでも長く見ていたいと願ったんだから。
白々しくも幸せな 偽物の日常を。

伊野が診療所から逃げ出した後、駅で実家に電話をかけるシーンがある。母親に父親を電話口に出してくれと頼むと、母親は「もう貴方だと分からないわよ」と言う。痴呆が進んでいるらしい。伊野が分かってる、と言うと 暫くして父親の声が聞こえる。


もしもし

父さん オサムです

そうですかぁ

父さん ごめんなさい
父さんのペンライト 盗んだの僕や

そうですかぁ

父さんのペンライト 盗んだの僕や

そうですかぁ…


漸く、伊野は懺悔を聞いてくれる相手を見出す。
電話口の向こうに。
ボケた父親に。


清々しくも人間の本質に迫った、良い映画だ。何より見終わった観客に自問させる力を持っている。
登場人物の誰もが少しずつ卑怯で歪んでるんだけど、主要キャスト逹はその歪みを何とも淡々とリアルに演じていた。瑛太は特に上滑りな理想主義とこずるい現実主義の、その合間にある一瞬を見事に視線の演技で表現していた。
必見です。オススメ!!


関連エントリ
瑛太が「EITA」だった時の事→やっぱ良いわ 「青い春」

いつも観た映画を手帳に書いてるんだけど、先週の金曜日から記入すんの忘れててさっき遅れて書き付けた。んだけど、金曜日に観た映画のうちの一本がどーしても思い出せない。

ツタヤディスカスで届いた二枚を一気に金曜日に観たはずで、もう一本が「転々」なのは間違いないんだけど…まー覚えてないってこたそんな面白くなかったのかな。と思いつつケータイでレンタル履歴を調べたらびっくり。


ああああエド・ウッドだあああああああああ


何で忘れてたんだろう…つまんなくないよ!超面白かったよ!実在した最低の映画監督 エド・ウッドをジョニー・デップが演じたティム・バートンの代表作です。作る映画はどれもこれも最低で、観客はスクリーンにポップコーンを投げまくるばかりか、舞台挨拶に現れた監督および俳優に対しても全く躊躇わずあらゆるものを投げつける始末。

今の世にも勿論「つまらない映画」ってもんは溢れ返っているけど、その大半は大体ビジョンが曖昧だったとか制作者の意図が通らなかったとかクライアントが無茶な要望を出したとか予算が足りなかったとか脚本がまずかったとか役者が悪かったとかそういう、いわば「力及ばず駄作」みたいな理由付けが行われる余地のあるものだけど、エド・ウッドの映画は違う。

彼の中には完璧なビジョンがあるしこだわりもある。スポンサーからのクレームも笑顔とトークでお茶濁して知らんふり。スタッフの仕事にエドも大満足。勿論自分自身の仕事にも自信満々。役者は彼が敬愛してやまないベラ・ルゴシ他、監督自身がスカウトしてきたオールスターだ。
力と愛はみなぎっている。

エドは、彼が面白いと思える映画を全力で作っているしその出来映えにも満足している。何も問題は無いのだ。ただ彼が面白いと思うものが、世間から観てびっくりするほどつまらないってだけ。


さて こうなった場合、ですよ。
要するに、世界中で自分以外の誰も、自分の作るものを必要としてないとしても、人は創作をやめずにいられるだろうか?
創作を続けることが出来るだろうか?


「戦い続けろ。自分の夢を見るんだ。他人の夢を見てどうする?」


劇中である人物が言う台詞である。
この作品はティム・バートンによるエド・ウッドへの、ベラ・ルゴシへのラブレターであり、映画監督としての意思表明であり、ひいては世界中のクリエイターに向けた応援歌なのだ。

ジョニー・デップ扮するエド・ウッドが、終始何とも良い笑顔で映画を撮って撮って撮りまくる。暗礁に乗り上げても、撮影が頓挫しても、何処か楽しそうに、自分を支えてくれるスタッフとともに(またこの人たちがすごい良い人達で、エド・ウッドが何だかんだで人望のある人物なんだということが分かる)何とかかんとか乗り越えていく。

とかく、何かに夢中になっている人間は端から見るとただ頭のおかしい人に見えがちである。実際エド・ウッドは狂人と言いうるかもしれない人物だ。最低映画のために全てを賭して、プライベートを犠牲にして、おまけに女装癖を持っているばかりか、そんな自分を主人公にして脚本を書き、それを恋人に読ませる事でカミングアウトしようとする。
そんな彼と彼の仲間逹に愛想を尽かしたエドの恋人が投げつける最後の言葉―「あんたたち、狂ってる!」―は、決してヒステリックな暴言ではない。ティム・バートンは、観客に彼のマッドっぷりがきちんと伝わるように描いている。

それでもなお、この映画に出てくるエド・ウッドを観客が否定出来ないのは 彼がいかにも楽しそうだから。全身全霊をかけて映画に取り組み、それを心から楽しんでいるからである。
エドは役者の演技を見ながら、その台詞に合わせて口パクをする。時折まるで指揮者のように頷き、恍惚とした顔を見せる。
そんな彼に何を言えるだろう?こちらも笑って見守るくらいしか出来ない。

ティム・バートンのクリーチャーに対する愛(エド・ウッドは常識の尺度で測れば間違いなく化け物だ)が溢れた、良い映画だった。文句なしのオススメ!

ほんと、何で忘れたんだろう…この後に「劇場版天元突破グレンラガン:紅蓮編」(こっちもオススメ)なんて濃いもんを観たせいだろうか。



この映画を観て感動して
ついうっかりエド・ウッドの映画を観てしまい
そのあんまりな完成度に打ちのめされた映画ファンって世界中にあふれかえってんだろうなあ。

カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
ブログ内検索
参加しています
モバビス
最新CM
[05/14 Backlinks]
[11/15 かんりびと]
[11/13 ベアール]
[11/10 カンリニン]
[11/08 ベアール]
最新TB
心に本棚を作れ!
メルフォ
アクセス解析
バーコード
忍者ブログ [PR]
"うらもち" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.