くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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「赤とバカ」のつづき。
さて、前エントリは庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」と、あすなひろしの「青い空を、白い雲がかけてった」の間に私が直感的イメージ先行型の類似点を見出したというところで終わった。
wikiによると、この作品は1976~1981年の間、少年チャンピオンで連載された短編連作であり、あすなひろしの作品の中では最も知名度が高い作品だそうな。当時のチャンピオンは「ブラック・ジャック」や「マカロニほうれん荘」「ドカベン」などの人気連載を抱えており、まさに全盛期だったのだとか。この作品の知名度が高いのは、そんなマンモス雑誌で連載されていた為だろう。
コミカルなペンタッチと物語の合間合間に挟まるギャグとは裏腹に、物語のベースにはいつもほんのりと叙情的なテーマがある。それは何も大それた事ではなく、寧ろ当時の世相や風俗を反映したごく身近なテーマ(例えば都市開発によって住処を失ったタヌキや、中学三年生のツトムたちが直面する受験戦争など)を選んでいるためか、今読んでいる私にこの作品が生まれた時代というものを強く意識させる。きっと当時の読者にとっても共感しやすい内容だったのではないかと思う。
この時代を前面に押し出した描き方は、「赤頭巾ちゃん気をつけて」にも強く見られる傾向である。「酒井和歌子と内藤洋子どっちがいいかとか」(25頁)、「しょっ中いろんなゴーゴー・パーティやなんかにぼくを連れ出して」(57頁)などの、要するに「すぐ古くなってしまうだろう」と容易に想像出来る名詞をためらわずにばんばん使っている。ちょうど「青い空を」のなかでツトムがエンゼル体操を踊ったり、夏子先生が「ここはキャバレーやアルサロじゃなぁーい!」と怒鳴ったりするのにも似ているじゃないか。(「アルサロ」にいたっては何のことなのか全くわからん)
特に良く似ているなあ、と思うのは、双方とも「受験」を描いている点である。これは決して偶然ではあるまい。両作者が、当時の青年にとって切実な問題をピックアップした結果、同じ「受験」というテーマが浮かび上がったと考えるのが自然だ。
「赤頭巾ちゃん」が書かれたのは1969年。この年の1月18日から19日、全共闘が占拠していた東京大学安田講堂に機動隊が突入し、600人あまりの逮捕者を出した「東大安田講堂事件」が起こり、この影響により、東大入試中止という異例の事態となる。2年前の1967年には、東京都で学校群制度が導入されている。学校群制度とは「複数の学校が群れを作ってその中で学力が平均化するように合格者を振り分ける方法」(wiki)であり、当時顕著であった学校間の学力差をなくすために用いられた。優等生が大学に行く、という発想が消えようとしていた時代。その変革の狭間に、薫とツトムはいたのではないだろうか。
まだつづく。
wikiによると、この作品は1976~1981年の間、少年チャンピオンで連載された短編連作であり、あすなひろしの作品の中では最も知名度が高い作品だそうな。当時のチャンピオンは「ブラック・ジャック」や「マカロニほうれん荘」「ドカベン」などの人気連載を抱えており、まさに全盛期だったのだとか。この作品の知名度が高いのは、そんなマンモス雑誌で連載されていた為だろう。
コミカルなペンタッチと物語の合間合間に挟まるギャグとは裏腹に、物語のベースにはいつもほんのりと叙情的なテーマがある。それは何も大それた事ではなく、寧ろ当時の世相や風俗を反映したごく身近なテーマ(例えば都市開発によって住処を失ったタヌキや、中学三年生のツトムたちが直面する受験戦争など)を選んでいるためか、今読んでいる私にこの作品が生まれた時代というものを強く意識させる。きっと当時の読者にとっても共感しやすい内容だったのではないかと思う。
この時代を前面に押し出した描き方は、「赤頭巾ちゃん気をつけて」にも強く見られる傾向である。「酒井和歌子と内藤洋子どっちがいいかとか」(25頁)、「しょっ中いろんなゴーゴー・パーティやなんかにぼくを連れ出して」(57頁)などの、要するに「すぐ古くなってしまうだろう」と容易に想像出来る名詞をためらわずにばんばん使っている。ちょうど「青い空を」のなかでツトムがエンゼル体操を踊ったり、夏子先生が「ここはキャバレーやアルサロじゃなぁーい!」と怒鳴ったりするのにも似ているじゃないか。(「アルサロ」にいたっては何のことなのか全くわからん)
特に良く似ているなあ、と思うのは、双方とも「受験」を描いている点である。これは決して偶然ではあるまい。両作者が、当時の青年にとって切実な問題をピックアップした結果、同じ「受験」というテーマが浮かび上がったと考えるのが自然だ。
「赤頭巾ちゃん」が書かれたのは1969年。この年の1月18日から19日、全共闘が占拠していた東京大学安田講堂に機動隊が突入し、600人あまりの逮捕者を出した「東大安田講堂事件」が起こり、この影響により、東大入試中止という異例の事態となる。2年前の1967年には、東京都で学校群制度が導入されている。学校群制度とは「複数の学校が群れを作ってその中で学力が平均化するように合格者を振り分ける方法」(wiki)であり、当時顕著であった学校間の学力差をなくすために用いられた。優等生が大学に行く、という発想が消えようとしていた時代。その変革の狭間に、薫とツトムはいたのではないだろうか。
まだつづく。
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