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同じテーマで何度も何度も書き続ける事になる。
おとなげなくなんかない。一生懸命なだけじゃ!
書きたくて書きたくて仕方が無いけどもそのたびに思いとどまる。何故ならネタバレどころの話じゃないネタバレ話になってしまうから。でもやっぱあれは書きたいよなあ・・・・・
あ、「からくりサーカス」の話ですけどね(またかよ)
先日書いたやつでも言ったけども、藤田和日郎の漫画は読んで感じるよりもっともっとエンターテインメント性の強いものなんだと思う。熱血!男の戦い!ロマン!ていうそんだけの意味ではなくて、漫画であること、虚構であることを作者はかなり意識して描いてるんじゃないかなあと思う。一番最初のエントリで私は「キャラを愛するっていうのは母としての目と創作者としての目を持つことだ」と書いたし、それは普通に考えてかなり難しい事だと思うと結んだが、藤田和日郎はこの「バランスを取ること」にかけては意外と上手くやってんじゃないかなーと。漫画が熱いから、そういう小器用なことはいかにも下手そうつーか、感情に走ってしまいそうなイメージを抱きがちではあるけども。
怒り、悲しみ、喜び、ありとあらゆるさまざまな感情が暴発を繰り返す藤田和日郎の長篇漫画は、読み進める者を凄まじく消耗させ引きずり回す。作者自身そのことには自覚的であろうし、だからこそ最後に特大のクッションを用意するんだろう。例えばうしおととら最後のコマ。例えばからくりサーカスの、ほら、例のあれ。
私は、あそこにものすごい自信を見て取るのだよ。ということは前に書きましたよね。あのクッションは諸刃の剣である。ともすれば今まで長い時間をかけて紡いできた物語を、一瞬にして台無しにしてしまう性質のものだと思う。実際、あの一コマに「なーんでえ結局そうかよ」と思った人もいるだろうし、例のあれを見て「興ざめッス」って人もいる。いると聞いた。良く知らんがいると思う。しかしあれは一種の覚悟表明なので、やらなきゃ良かったのに なんて段階の話ではないのである。と言い切ってしまおう。勝手に。
漫画は漫画であって、決してドキュメンタリーでも教科書でもなく、面白ければ何でも良いわけで、読者をクスリとさせればそれで良い―それゆえにまた、面白くなければ何の意味も無いのではあるが。
藤田和日郎はあるラジオで「自分たちは漫画家である。漫画家は漫画なんていう、世の中に何ら必要の無いもんを描く事で飯を食うことを許されている。」と言っている。世の中に必要の無い漫画、だからこそ、面白くなければいけないし、漫画家は命をかけて面白い漫画を描かなければ―と繋がる。
藤田にとっての漫画とは、人間が生きていく上での糧となるもの、読むことで勇気を与え感動を与え、「ようし自分も頑張るぞ」と読者を奮い立たせて初めて漫画なのである。それはあたかも、存在そのものを、存在した時点で認められており、人間がその価値を認めるか否か、という問題からは常に解き放たれている「芸術」の対極を行くようでもある。
漫画、および漫画家の社会的意義、役割を 藤田は過信しないし、読者に対しても過信することを許さない。話の終わりはきちっと終わらせる。「まだ続いているかもしれない」と夢見る読者を放置することを潔しとしない。
そういうわけなので、からくりサーカスのラスト数十ページ(だっけ?)についての感想としては、「興ざめッス」が大当たりなのかもしれない。と今思う。
きっとさっさと興を醒ましてやりたかったんじゃないかしらん。
物語に酔ってる場合じゃないぜ。今度は自分のサーカスに飛び込む番だろ。
そう言いたかったんじゃないかなあ。ってちょっとメルヘン過ぎるか。この終わり方。