くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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「ヒーローショー」について書くよーというエントリを上げた途端
「ヒーローショー」で検索をかけて来てる人がたくさん。
こ こええ
まーでも嘘はつけませんのでね。
あらすじショー
お笑いの専門学校に通いながら、夢にもバイトにも打ち込めずだらだらと毎日を送るユウキ。
そんなある日、先輩である剛志に子供向けヒーローショーのバイトを紹介されるが、そこで共に働く剛志の彼女とノボルの浮気が発覚。
ショーの最中に剛志はノボルに殴りかかるが、逆にボコボコにされてしまうという事件が起こる。
腹の虫の収まらない剛志は友人の鬼丸兄弟、ノボルは同じくバイト仲間のツトムとツトムの兄、ツトムの兄の友人である自衛隊上がりの勇気を巻き込み、暴力の連鎖を繋いでいく。
やがて起こってしまう陰惨な事件。その時ユウキは…
みたいなみたいな。
某所で「パッチギが好きな人はこの映画が嫌いって言う。岸和田少年愚連隊やガキ帝国が好きな人はこの映画が好きって言う。」とか書かれててイラッとした。
私は岸和田少年愚連隊もパッチギも好きだけどこの映画は嫌いです。
で、まず前提としてこの映画は実在の事件を基にした映画です。
これ。→東大阪集団暴行殺人事件
女絡みのいざこざで対立した友人同士が、それぞれのタチ悪い知人やら何やらを味方につけて、仕返しに仕返しを重ねた結果片方を殺してしまった。という事件。
最初は本当に些細な事だったのに、暴力と思慮の無い行動・言動が連鎖して最悪の結末に至る。
確かにこれは映画になりうるテーマを孕んだ事件だとは思う。
人間の良心・理性といったものが、保身や恐怖・連帯の心理などによっていかに脆く崩れ去るかを描いている点は、ミルグラム実験的でもある。
でもねー。
とりあえず此処で茶を濁すために(!)井筒監督のインタビューを引用してみる。
井筒 暴力だけをファッションにしてる子供騙しの嘘っぽい映画が多過ぎるよ、ここんとこ。何より、今の時代の若者や子供たちの無意識が、深層心理こそが、暴力への衝動を呼んでるのかも知れないけど、映画こそ暴力にリアリティが必要だし、映画の中にこそ大衆の心の欲求や真実が隠れている。現実社会って「実はそうだったのか」と、ずいぶんあとになって真実を知るんだけど、映画はすぐ、とびっきりの真実を知らせてくれる。そこが、映画の醍醐味のひとつやと思いますね。
――監督が「真実」を求めたが故に明確な答えが提示されないラストシーンが印象的でした。観る人によっては「救いがない」とも感じられるというか。
井筒 救いがないねぇ。ま、そう受け取る人もいてるでしょうけど、「おととい来なさい」と(笑)。だって、映画が客に都合のいいような予定調和で作られるほどダサいものはないし、そんな過保護な映画ほど信用ならないし、ニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』や『イージー・ライダー』でも、救いなんて初めっからないでしょ。そんな調子のいい判りきったことを思って映画なんか観に行かないもん。『ヒーローショー』では、観客に人生を歩んでほしかった。人生と言うのが大げさなら、たえず自分の運転する車の横にそいつら主人公たちが乗っていて、ところが、ある日突然、彼らはドアを開けて出て行ってしまう。観客はその車に残される。だからこそ、去ったヤツらのことを考えてしまうわけで。最近の安直なラストの予定調和は胡散臭いだけで、逆にそれで悲しくなる。今の日本映画って、全部とは言わないけれど、あまりにも非現実で嘘だらけ、嘘っぱちが多すぎるでしょ? 外国に行って指揮棒振って、みんなで「良かった良かった」と言われても(笑)。人生の憂さ晴らしにもならないし、現実に戻って忘れてハイお終い。
蛇足とは思うけど、一応→アメリカン・ニューシネマ
それにしても目に付くのは「暴力だけをファッションにしてる子供騙しの嘘っぽい映画」とか「外国行って指揮棒振って」とかっていう点で、ほんと井筒監督ってこういうことさえ言わなけりゃなあと思うんだけど まあこういうとこが好きな人もたくさんいるんでしょうしこの人はこういう物言いしか出来ないんだろうから(キャラ作りだとしたらあまりにもハイリスク)仕方ない。
私は、ほんとはアメリカン・ニューシネマと呼ばれる映画(或いは幾つかの映画がそう呼ばれる事)にあまり興味は無い。
何故なら私自身が当時のアメリカについて全くの無知だから。
「卒業」は胡散臭いアメリカのホームドラマからの脱却、「タクシー・ドライバー」はベトナム戦争後の荒廃した社会に対する皮肉、「フレンチ・コネクション」は当時市民が抱いていた警察に対する不信感と、渦巻く人種差別の暴露。
そういったあれやこれやを、後から書籍などを読んで補完する事は可能だけど、それらを感覚的に理解することは出来ない。
「ワイルド・バンチ」「ダーティーハリー」「カッコーの巣の上で」「タクシー・ドライバー」…全部とても好きな映画だけどそれはアメリカン・ニューシネマだからではない。
私はこれらの映画の中で、ビショップが、ハリーが、マクマーフィーが、トラヴィスが、悪漢や無差別殺人鬼や権威や腐敗した社会に唾を吐き、立ち向かうからこそ好きなのだ。
「ヒーローショー」の主人公ユウキは立ち上がろうとしない。
最後まで流されて流されて、しまいにはあんなに嫌いだった、田舎に流れ着いて両親の仕事を助けるという選択をする。
確かにリアルかもしれない。結局現状に押しつぶされ、夢なんて見つからず、希望も無く、負けて故郷に帰っていく人間の方がよほど多いのかもしれない。
でもそんな社会を映すだけじゃ映画にならないんだって。
実際にあった事件をなぞらえて、「今現実世界で起こっているかもしれない」惨状を描いて、「クラスに一人か二人はいそうなフツーの奴」を主人公に配置しただけでは駄目なんだって。
その主人公が、自分を押さえつけてきたフラストレーションや怒りや欲望に我を忘れ、生涯一度かもしれない「人生に対しての反乱」を起こすからこそ、映画は映画たりうるし、観客達は奮い立つんじゃないか。
映画というのは確かに世相を映すものである。その背景に拠って立つものである。
でもそれだけでは駄目なのだ。主人公の、燃え上がる意思が無ければ駄目なのだ。
井筒監督はそのことを分かっていると思ってた。
だから私は「パッチギ!」が大好きなのに。
ついでだからはっきり言うけど、井筒監督は現代社会に生きる若者を見下している。
ほんとに、この映画に出てくる人間達を「現代のリアルな若者」だと思ってるって言うんならね。
実際に起きた事件をモデルにしていようがいまいがそこに説得力は無い。
ていうかリアルっていうのは実際にあったことかどうかってのをさして言う言葉じゃない。
リアリティってのは説得力だ。「起こり得る事件」「存在しうる世界」に対しての言葉だ。
ついでに言えば暴力描写もぬるいし、
救いの無いラストってほどでもない。
「この映画のラストがハッピーエンドだって勘違いしてる人がいるけど、何処見てんだ?」
という書き込みをオンラインで幾つか見たけど、
それは見た人がバカだとかそういうことじゃなくて
「救いの無さ」の描写が不完全なだけだ。
だから見ようによっては取ってつけたようなハッピーエンドにも見えてしまうんだよ。
何ともおさまりのつかない、イライラする映画でした。
この映画そのものにというよりは、この映画に対する井筒監督のスタンスや、
世の中での受け取られ方についてのイライラかもしれない。
こんなん全然リアルじゃねーよ。
面白くも何ともありませんでしたが、オススメです。
実際見てどう感じたかを私に教えてください。
関連エントリ
ま、作品は作品。監督は監督。
→爽快だ!「パッチギ!」
――監督が「真実」を求めたが故に明確な答えが提示されないラストシーンが印象的でした。観る人によっては「救いがない」とも感じられるというか。
井筒 救いがないねぇ。ま、そう受け取る人もいてるでしょうけど、「おととい来なさい」と(笑)。だって、映画が客に都合のいいような予定調和で作られるほどダサいものはないし、そんな過保護な映画ほど信用ならないし、ニューシネマの傑作『真夜中のカーボーイ』や『イージー・ライダー』でも、救いなんて初めっからないでしょ。そんな調子のいい判りきったことを思って映画なんか観に行かないもん。『ヒーローショー』では、観客に人生を歩んでほしかった。人生と言うのが大げさなら、たえず自分の運転する車の横にそいつら主人公たちが乗っていて、ところが、ある日突然、彼らはドアを開けて出て行ってしまう。観客はその車に残される。だからこそ、去ったヤツらのことを考えてしまうわけで。最近の安直なラストの予定調和は胡散臭いだけで、逆にそれで悲しくなる。今の日本映画って、全部とは言わないけれど、あまりにも非現実で嘘だらけ、嘘っぱちが多すぎるでしょ? 外国に行って指揮棒振って、みんなで「良かった良かった」と言われても(笑)。人生の憂さ晴らしにもならないし、現実に戻って忘れてハイお終い。
蛇足とは思うけど、一応→アメリカン・ニューシネマ
それにしても目に付くのは「暴力だけをファッションにしてる子供騙しの嘘っぽい映画」とか「外国行って指揮棒振って」とかっていう点で、ほんと井筒監督ってこういうことさえ言わなけりゃなあと思うんだけど まあこういうとこが好きな人もたくさんいるんでしょうしこの人はこういう物言いしか出来ないんだろうから(キャラ作りだとしたらあまりにもハイリスク)仕方ない。
私は、ほんとはアメリカン・ニューシネマと呼ばれる映画(或いは幾つかの映画がそう呼ばれる事)にあまり興味は無い。
何故なら私自身が当時のアメリカについて全くの無知だから。
「卒業」は胡散臭いアメリカのホームドラマからの脱却、「タクシー・ドライバー」はベトナム戦争後の荒廃した社会に対する皮肉、「フレンチ・コネクション」は当時市民が抱いていた警察に対する不信感と、渦巻く人種差別の暴露。
そういったあれやこれやを、後から書籍などを読んで補完する事は可能だけど、それらを感覚的に理解することは出来ない。
「ワイルド・バンチ」「ダーティーハリー」「カッコーの巣の上で」「タクシー・ドライバー」…全部とても好きな映画だけどそれはアメリカン・ニューシネマだからではない。
私はこれらの映画の中で、ビショップが、ハリーが、マクマーフィーが、トラヴィスが、悪漢や無差別殺人鬼や権威や腐敗した社会に唾を吐き、立ち向かうからこそ好きなのだ。
「ヒーローショー」の主人公ユウキは立ち上がろうとしない。
最後まで流されて流されて、しまいにはあんなに嫌いだった、田舎に流れ着いて両親の仕事を助けるという選択をする。
確かにリアルかもしれない。結局現状に押しつぶされ、夢なんて見つからず、希望も無く、負けて故郷に帰っていく人間の方がよほど多いのかもしれない。
でもそんな社会を映すだけじゃ映画にならないんだって。
実際にあった事件をなぞらえて、「今現実世界で起こっているかもしれない」惨状を描いて、「クラスに一人か二人はいそうなフツーの奴」を主人公に配置しただけでは駄目なんだって。
その主人公が、自分を押さえつけてきたフラストレーションや怒りや欲望に我を忘れ、生涯一度かもしれない「人生に対しての反乱」を起こすからこそ、映画は映画たりうるし、観客達は奮い立つんじゃないか。
映画というのは確かに世相を映すものである。その背景に拠って立つものである。
でもそれだけでは駄目なのだ。主人公の、燃え上がる意思が無ければ駄目なのだ。
井筒監督はそのことを分かっていると思ってた。
だから私は「パッチギ!」が大好きなのに。
ついでだからはっきり言うけど、井筒監督は現代社会に生きる若者を見下している。
ほんとに、この映画に出てくる人間達を「現代のリアルな若者」だと思ってるって言うんならね。
実際に起きた事件をモデルにしていようがいまいがそこに説得力は無い。
ていうかリアルっていうのは実際にあったことかどうかってのをさして言う言葉じゃない。
リアリティってのは説得力だ。「起こり得る事件」「存在しうる世界」に対しての言葉だ。
ついでに言えば暴力描写もぬるいし、
救いの無いラストってほどでもない。
「この映画のラストがハッピーエンドだって勘違いしてる人がいるけど、何処見てんだ?」
という書き込みをオンラインで幾つか見たけど、
それは見た人がバカだとかそういうことじゃなくて
「救いの無さ」の描写が不完全なだけだ。
だから見ようによっては取ってつけたようなハッピーエンドにも見えてしまうんだよ。
何ともおさまりのつかない、イライラする映画でした。
この映画そのものにというよりは、この映画に対する井筒監督のスタンスや、
世の中での受け取られ方についてのイライラかもしれない。
こんなん全然リアルじゃねーよ。
面白くも何ともありませんでしたが、オススメです。
実際見てどう感じたかを私に教えてください。
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ま、作品は作品。監督は監督。
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