くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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さて。長々と時間をかけている割に大した事を書いてない、でお馴染みのお話でございますが。
前回は原作で言うところの「夕凪の街」にあたる部分までの紹介をしましたが、今回はその続き。約50年後の東京に舞台を移した続編「桜の国」にあたる部分に触れます。
で、私はこの映画版については「夕凪の街」に関してはあまり評価出来ないんだけど、「桜の国」の展開というか、語り口には結構満足している。
まずキャストの面で、「夕凪の街」よりも粒揃いで演技力も安定している。
七波を田中麗奈、七波の友人・東子を中越典子が演じている。この二人が実に良い。
凪生役の金井勇太も、さほど登場は多くないが印象的だった。
物語は、七波が父・旭の不審な行動に疑問を持ち、駅で17年ぶりに出会った小学校の同級生である東子と父の尾行をするところから始まる。
父が広島行きの夜行バスに乗り込んだところで諦めようとした七波を、何故か東子が強引に押しきり結局二人で広島へ。
そこで物語は旭と、彼の今は亡き妻である京花の出逢いを、七波と東子の道行きに絡めて語り始める。
それらふたつの時間軸を持って、被爆者というラベルを付けて生きざるを得なかった人々、そのラベルを無視出来ずに生きる人々の悲しみに寄り添うように静かに描かれる本作は、「夕凪の街」と同様、いやそれよりも映像化に向いた物語であると言えるが、この映画で特に私が「おお」と思ったのは、平和祈念館から帰って来た東子が思わず気持ち悪くなってしまうシーンだった。
ぐったりしている東子を支えながらやむを得ず、七波はラブホテルに入る。部屋の鍵を開けて扉を開いた瞬間、七波を突然のフラッシュバックが襲った。小学校から帰宅して、床に血を吐いて倒れている母親を発見した時のことを思い出したのだ。立ちすくんでいた七波は、東子の謝る声を聞いて我に返る。
彼女の方に振り返ると、自分の左肩に彼女の吐瀉したものがかかっていた。耐えきれず吐いてしまったらしい。
で、吐いたものをこの映画では結構はっきり映している。邦画ってこういう、いわゆる汚物の描写からさらっと逃げる事が良くあるので、正直ちょっと意外で、かなり好印象だった。
同時に、何故これを「夕凪の街」で出来なかったのかと残念に思った。
皆実の唐突で残酷な、救いのない死を描写する上で決して外せないモノローグ、
「夜おそく まっくろな血を吐いた」
これをしっかり映像で見せていれば、この作品を映像化するという意思を強く感じられたのになあと思う。
映像化するということは、文字通り映像にして客に見せるという事であって、絵に描かれたものをそのまま映像に起こすだけではもちろん駄目だけど、見せるべき絵というものもやはりあるわけで。そこを外してまさに換骨奪胎、といった様相の映画化が特に日本映画には多い気がする。過剰な気遣いが作品のメッセージ性を殺してしまうというか何というか。
まあ、わざわざ恐ろしいものや醜いものを映さずに表現して観客に理解させるというのも手腕の一つといえば一つ。この作品でそれが出来てるかは人それぞれの判断として。
いずれにしろ、原作にも触れることを前提にして、オススメです。
理解する必要は無いかもしれないけど、出来る限りの事を見て聞いて考える必要のある事だとは思う。
だから映像化にもそれなりの意義はあったんじゃないか。と思いはする。思いはするんですが…
原作と映画、どっちが先でも良いけど、まあ多分原作先の方が分かりやすいかな…
んで映画観たら次に「イキガミ」観て金井勇太の演技力を判定するもよし、「おろち」で中越典子の女優ぶりにおののくもよし。
関連エントリ
中越典子の「影」と「裏」(あれ、光は?)
→美猫たちの闘い 「おろち」
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