くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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リチャード・カーティスの映画を観ると大体いつも、最低一度は泣いてしまう。
「フォー・ウエディングス」はラスト、エンドクレジットで流れるそれぞれの結婚式スナップで。「ブリジットジョーンズの日記」はパパのもとにママが戻って来た次の日、親子で車に乗って彼の家に向かうシーンで。「ラブ・アクチュアリー」では当然ラストの空港で。
で、本作「パイレーツ・ロック」では?というと、まずその前にあらすじでしたな。失敬。
1960年代後半のイギリス。ロック全盛の時代に、政府はポピュラーミュージックのラジオ放送を1日45分までに制限していた。
そんなご時勢、国民の絶大な支持を得ていたのが、船上から放送された「海賊ラジオ」。物語は架空のラジオ局「ラジオ・ロック」を舞台に、個性的なDJ達と共同生活を送る中で彼らとの交流を経て成長していく主人公の姿を描いていく。
な
ーんちゃって、実際本作では主人公の成長、とかはあんまり描かれていない。
寧ろメインなのは異常なまでにキャラ立ちしているDJ陣と60年代ポップスミュージックと、非常に権威的で頭の硬い当時の体制側。
ストーリーは、まあはっきり言って、無い。無いも同然。体制側とラジオ局の戦いも描かれる事は描かれるが、別にどっちかが上手く相手の裏を掻くとかそーゆーのでもない。
最終的にラジオ局が取る行動も、「うん。…いやこちとらずっとそれやれって思ってたよ!」て感じだったし。
最後の最後も「そらそーなるだろーよ!」としか言い様の無い予定調和。
でも何でだろう。ラストで泣いてるんですなあ。
この人(リチャード・カーティス)の作品におけるエンディングは、一言にすると「今まで出てきた人みんなが大集合して大ハッピー!」だ。「フォー・ウエディングス」のラストは結婚式会場、「ラブ・アクチュアリー」のラストは空港の到着口。いずれも無数の人生が絡まり合う場所で、そこで今まで作品に顔を覗かせた登場人物が勢揃いする。
不思議なもんで、主役から脇役までがラストにずらーっと出てくるだけで、何故だか無条件に感動出来るもんなんである。いやそりゃほんとにただ出てくるだけじゃ駄目なんだけど。
で、リチャード・カーティスはそのラストに、いつも非常に整合性のある舞台を持って来る。
直接関係の無い人々が集まって、一心に新郎新婦を祝福する結婚式場や、それぞれの人々がそれぞれの友人や親、恋人、子供を、同じ気持ちで待っている空港の到着口。
それらの場所で、今まで語られて来た複数の人生が、集結するべくして集結する。その心地よさ。
いやもう何つうのか、うんめえ。上手いよね嫌らしいくらいに!
で、本作でもそれは顕在で、やっぱりラストでは愛と幸せに溢れた大集合が見れる訳ですが。
その「ハッピーの理由付け」ってのが毎回あるとするなら、前述の結婚式場と空港の到着ロビーてのはもうそんだけで理由になってんですよね。
それらの舞台てはつまり「見知らぬ人たちが同じ気持ちを抱いて集う場所」であって。
で、本作における「ハッピーの理由付け」ってのが何処にあるのかと考えると、私はそれ「1960年代後半イギリス」という時代にあるんじゃないかと思う。
強い規制を受けていた音楽というものによって生まれる、DJとリスナーの絆をよりしろにした一体感。これには確かに説得力はある。
あるんだけど。
前作の空港ロビーや結婚式場で生まれる一体感って、それこそ観ている誰もが共有出来るものだと思うんですよ。だからこそ観ていて物凄く気持ち良い感動が溢れる。
でも今回のそれは良くも悪くも限定的で、あの時代を知っている人と知らない人、の二種類に観客を二分してしまうという点で明らかに前作と比べて異質なんですよね。
だからこそ前作よりこっちが好き!って人もいれば、いまいち乗りきれない人もいると。
で、私は後者。
あと、この人の映画って、「悪役がいない」ってのが良いとこだと私は思っていて。
いてもどこか憎めない、滑稽な感じで描かれてるところに私は好感を持っていたんだけど、今回はそのものずばり「政府」っていう敵を配置してあり、なおかつその敵によってDJとリスナーの絆が強まってしまっている、いわば一体感を生む為の装置になっているのがちょっと残念でした。
まあ、敵である、弾圧する側の人間を愉快に描いてはいるし、それは十分成功してるとは思うんだけど。
それでも当時全盛だったロックミュージックに対する監督の愛は溢れていたし(選曲ばっちり!)、愛すべきキャラクターも沢山で、非常に魅力的な映画でありました。
その魅力の一端を担うのがキャスト陣。フィリップ・シーモア・ホフマンに、「ラブ・アクチュアリー」でおなじみビル・ナイとエマ・トンプソン。海賊ラジオを弾圧する役人はケネス・ブラナー。そしてとんでもないデブなのに何故かモテモテのフェロモンDJは「ホット・ファズ」でサイモン・ペッグと組んでた映画オタク、ダニーを演じたニック・フロスト!映画観てて気付かなかったぐらい激太り!すっげー!
余談ですがこれ書くために「ホット・ファズ」をウィキで見てビル・ナイも「ホット・ファズ」に出てた事を知った。そういえばあああああの上司あの人だああああ!
要するに、この映画は、「昔イギリスってこーんなんだったんだぜすっげーだろかっこいーだろ!」つう監督の自慢話です。
でもこんな無邪気に自慢されたら、いっそ爽快。「そーだったんだ!良いなあああ」って素直に思えてしまう。そんな気持ち良い映画でした。
音楽好きにもそうでない人にもイギリス好きにもそうでもない人にも
そしてもちろんフィリップ・シーモア・ホフマン好きにも「そんなデブしらねー」って人にも、総じておすすめです!
こんだけサントラが必要な映画もあんま無い。
関連エントリ
しかしこの人ひょっとして痩せたら物凄いセクシーなんでは
→男子映画を見て思う 「ホット・ファズ」
「フォー・ウエディングス」はラスト、エンドクレジットで流れるそれぞれの結婚式スナップで。「ブリジットジョーンズの日記」はパパのもとにママが戻って来た次の日、親子で車に乗って彼の家に向かうシーンで。「ラブ・アクチュアリー」では当然ラストの空港で。
で、本作「パイレーツ・ロック」では?というと、まずその前にあらすじでしたな。失敬。
1960年代後半のイギリス。ロック全盛の時代に、政府はポピュラーミュージックのラジオ放送を1日45分までに制限していた。
そんなご時勢、国民の絶大な支持を得ていたのが、船上から放送された「海賊ラジオ」。物語は架空のラジオ局「ラジオ・ロック」を舞台に、個性的なDJ達と共同生活を送る中で彼らとの交流を経て成長していく主人公の姿を描いていく。
な
ーんちゃって、実際本作では主人公の成長、とかはあんまり描かれていない。
寧ろメインなのは異常なまでにキャラ立ちしているDJ陣と60年代ポップスミュージックと、非常に権威的で頭の硬い当時の体制側。
ストーリーは、まあはっきり言って、無い。無いも同然。体制側とラジオ局の戦いも描かれる事は描かれるが、別にどっちかが上手く相手の裏を掻くとかそーゆーのでもない。
最終的にラジオ局が取る行動も、「うん。…いやこちとらずっとそれやれって思ってたよ!」て感じだったし。
最後の最後も「そらそーなるだろーよ!」としか言い様の無い予定調和。
でも何でだろう。ラストで泣いてるんですなあ。
この人(リチャード・カーティス)の作品におけるエンディングは、一言にすると「今まで出てきた人みんなが大集合して大ハッピー!」だ。「フォー・ウエディングス」のラストは結婚式会場、「ラブ・アクチュアリー」のラストは空港の到着口。いずれも無数の人生が絡まり合う場所で、そこで今まで作品に顔を覗かせた登場人物が勢揃いする。
不思議なもんで、主役から脇役までがラストにずらーっと出てくるだけで、何故だか無条件に感動出来るもんなんである。いやそりゃほんとにただ出てくるだけじゃ駄目なんだけど。
で、リチャード・カーティスはそのラストに、いつも非常に整合性のある舞台を持って来る。
直接関係の無い人々が集まって、一心に新郎新婦を祝福する結婚式場や、それぞれの人々がそれぞれの友人や親、恋人、子供を、同じ気持ちで待っている空港の到着口。
それらの場所で、今まで語られて来た複数の人生が、集結するべくして集結する。その心地よさ。
いやもう何つうのか、うんめえ。上手いよね嫌らしいくらいに!
で、本作でもそれは顕在で、やっぱりラストでは愛と幸せに溢れた大集合が見れる訳ですが。
その「ハッピーの理由付け」ってのが毎回あるとするなら、前述の結婚式場と空港の到着ロビーてのはもうそんだけで理由になってんですよね。
それらの舞台てはつまり「見知らぬ人たちが同じ気持ちを抱いて集う場所」であって。
で、本作における「ハッピーの理由付け」ってのが何処にあるのかと考えると、私はそれ「1960年代後半イギリス」という時代にあるんじゃないかと思う。
強い規制を受けていた音楽というものによって生まれる、DJとリスナーの絆をよりしろにした一体感。これには確かに説得力はある。
あるんだけど。
前作の空港ロビーや結婚式場で生まれる一体感って、それこそ観ている誰もが共有出来るものだと思うんですよ。だからこそ観ていて物凄く気持ち良い感動が溢れる。
でも今回のそれは良くも悪くも限定的で、あの時代を知っている人と知らない人、の二種類に観客を二分してしまうという点で明らかに前作と比べて異質なんですよね。
だからこそ前作よりこっちが好き!って人もいれば、いまいち乗りきれない人もいると。
で、私は後者。
あと、この人の映画って、「悪役がいない」ってのが良いとこだと私は思っていて。
いてもどこか憎めない、滑稽な感じで描かれてるところに私は好感を持っていたんだけど、今回はそのものずばり「政府」っていう敵を配置してあり、なおかつその敵によってDJとリスナーの絆が強まってしまっている、いわば一体感を生む為の装置になっているのがちょっと残念でした。
まあ、敵である、弾圧する側の人間を愉快に描いてはいるし、それは十分成功してるとは思うんだけど。
それでも当時全盛だったロックミュージックに対する監督の愛は溢れていたし(選曲ばっちり!)、愛すべきキャラクターも沢山で、非常に魅力的な映画でありました。
その魅力の一端を担うのがキャスト陣。フィリップ・シーモア・ホフマンに、「ラブ・アクチュアリー」でおなじみビル・ナイとエマ・トンプソン。海賊ラジオを弾圧する役人はケネス・ブラナー。そしてとんでもないデブなのに何故かモテモテのフェロモンDJは「ホット・ファズ」でサイモン・ペッグと組んでた映画オタク、ダニーを演じたニック・フロスト!映画観てて気付かなかったぐらい激太り!すっげー!
余談ですがこれ書くために「ホット・ファズ」をウィキで見てビル・ナイも「ホット・ファズ」に出てた事を知った。そういえばあああああの上司あの人だああああ!
要するに、この映画は、「昔イギリスってこーんなんだったんだぜすっげーだろかっこいーだろ!」つう監督の自慢話です。
でもこんな無邪気に自慢されたら、いっそ爽快。「そーだったんだ!良いなあああ」って素直に思えてしまう。そんな気持ち良い映画でした。
音楽好きにもそうでない人にもイギリス好きにもそうでもない人にも
そしてもちろんフィリップ・シーモア・ホフマン好きにも「そんなデブしらねー」って人にも、総じておすすめです!
こんだけサントラが必要な映画もあんま無い。
関連エントリ
しかしこの人ひょっとして痩せたら物凄いセクシーなんでは
→男子映画を見て思う 「ホット・ファズ」
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タランティーノは「何だこりゃ」って映画も最後きちんと落ちをつけるからすごいなあ
(合計4時間弱の映画を観てこんな感想しか出てこないのか…)
vol.2の最後にvol.1で大活躍した日本人たちのキャストが改めてクレジットされるんですが
ヤクザ会(オーレン石井がまとめている東京の組長連合)の中に北村一輝が!!
クレイジー88(オーレン石井率いる殺し屋集団)の中に「鈍獣」の時の北村一輝っぽい髪型の人がいたので「北村さんだったりしてあはは」って思ってたけど、もう1ランク上のキャスティングでしたね。良かった良かった。
あ、麿赤児は気づいたよ。
しかし栗山千明の死に顔はパーフェクトだね…
ルーズソックス+ローファーだったらもっと良かったんだけどな!
意外なキャストといえば、結婚式でピアノを弾く黒人がサミュエル・L・ジャクソンでした。
ご、豪華ー。
うーん面白かった。
後日オーディオコメンタリーも聞かなきゃ。
あ、ストーリー云々は特に言う事無いです。
追記ィイイイイ!!
さっき再び観直してみたら
やっぱりクレイジー88の中にいた鈍獣っぽい髪型は北村一輝だったよー!!
すっげ!私すっげ!てことは北村一輝はマイケル・パークス(保安官とビルの親代わりのおっさん)と同じく二役か。やるな。
更にその隣に田中要次がいて、クレイジー88の人たちは仮面つけてるんだけどもうこれは絶対輪郭が田中要次、間違いないって思ったけどクレジットがBOBAで、さっき検索したら田中要次はBOBAという別名を持っているらしい。なんじゃそら!笑!
しかしタランティーノは相当キル・ビルの日本パートに愛着を持っていると見た。
あのvol.2ラストのクレジットにおける力の入れようは他のパートを超越している。
その他にも國村隼とかいたし、ほんと日本パートだけでも十分楽しめる映画でした。
これはスクリーンで観たかったなーと思う反面、何度もあちこちチェックし直したくなったのでDVDのが良かったのかも。いずれにしろもっと早く観たかったな…
関連エントリ
北村一輝 as 良いヤクザ
→三池祭り第三夜 「龍が如く 劇場版」
どうも。
夜にお外を出歩いたら怖い人がいるからいけません。
と夜中(21時)に映画観に行こうとしたら止められたので
ばかやろうふざくんなこちとら成人して何年経ったと思ってやんだ!と怒りをぶつける代わりにDVDを3本借りてきてコーラ(ぺぷし)と午後ティー(ミルクティー)とクッキーと男のプリン買ってホクホクで帰ってきました。
ただいま!!
さてこんな私ですが実は今まで観た事が無かった事を恥じながら謹んで拝見しましたKILL!BILL!ボリューム!ワン!
最初は正座して観てましたが途中からあまりの下らなさ(ほめてる)に胡坐→涅槃像スタイル→ごろ寝と姿勢を変えながらさっき観終わりました。
まあ…あんま言う事無いんですが。しかし相変わらず映画の始め方と終わり方がとても良い!!
上手い!やっぱ上手いなあ良いなあ私この人の映画好きなんですよ(今更だなあ)。
あのビルの最後の台詞にふぉぉおおおおお、となってたところで流れ始めるエンドクレジットを見ていましたら
スタントの名前に「ゾーイ・ベル」が!
おおお!ゾーイと言えば「デス・プルーフ・イン・グラインドハウス」で決死の車スタントを決めていたあの人ではないか。まあ出てるわな。
しかしクレジットに出てきた無数の日本人映画監督が気になる。これは…オマージュシーン全て把握せねば気がすまないフラグ!(それはフラグとは言わない)
では今からvol.2を観ます。
また後ほど。
ほんとに3Dにかかるあの追加料金は何とかならんのだろうか。通常料金+300円!通常料金が既に高いのに?せめてポイント上乗せしろシネコンのうんこ!
と、いう冒頭の勢いからあらかた明らかなようにこのエントリは作品についてどうこうという話ではなく まあ3Dについての文句です。
そもそも、3D映像で映画として十分面白い作品を作るのって結構難しいんじゃないかと思う。それはつまり3Dではない状態で鑑賞してもちゃんと面白い映画ってことになるんだけど。
今んとこ3D=観客を驚かせるって感じの認識だからなおのこと難しいだろうなあ。
3Dじゃなくっても十分観客が驚くような映像にはそもそも3Dを使う必要がなくなるし。
もっと3D技術が浸透して、「ああ3Dちょっと使っとく?ま、別にあってもなくても良いけど」みたいな扱いになったら、3Dを効果的な演出として取り入れた、映画としても非常に上質な作品も出てくるかもしんないけど。
今は3Dという技術に、映画全体が振り回されてしまっているという印象。
「ファイナルデッドサーキット」を観て一番感じたのは、そこはかとない遊園地っぽさ。まだ真新しい技術だからか、3Dありきって感じでストーリーが進むので、映画というよりは寧ろアトラクションなのだ。
そんで観客は「驚いてあげてる」感じ。
内臓飛び出るんだろうな~
両足引きずり込まれるんだろうな~
トラック突き刺さるんだろうな~
あーほらねやっぱりね いやあ凄いねえ飛び出すねえ
そんな感じ。
映画観るつもりで行ったら肩透かしを食らうので、ジョイポリス気分で行くと良いかも。ちなみに上映時間80分くらいしかないのでつくづく無駄金払ったなあという気分にさせられます。だからといってあんなもん120分見せられても困るけど。3Dは恐ろしく目が疲れるので短めにしたのかもしれませんね。
あと、3Dだからか字幕がつけらんないらしい。だから吹き替えしかやってないんだけど この吹き替えがほんっと酷くてさあ
ココリコ 田中直樹(主人公)
里田まい(ヒロイン)
はるな愛(おっさん)
お前ら一生吹き替えやるな!と叫びたくなるクオリティ。いい加減プロ使ってくんないか。なーーーー !!
いつも思うんだけどこういう、タレントの吹き替えって誰が得してるんだろう。長い目で見て、起用されたタレント達にとってもただの闇歴史となるだけだってのは分かりきっているというのに。シンプソンズの悪夢を忘れたのか!
まあ、吹き替えの事を差し置いても映画として駄目な出来でした。
シリーズ中で一番つまらないという意見も聞いたので、ファイナルデッドコースターとかはちゃんと面白いんじゃない?と無責任にお勧めしておきます。私は観てないし、観ないけど。
実は柳良優弥カムバックと聞いて、地雷を承知で「戦慄迷宮3D」は観に行くつもりでいたんですが、今回の事で完全に懲りたのでやめときます。
と、いう冒頭の勢いからあらかた明らかなようにこのエントリは作品についてどうこうという話ではなく まあ3Dについての文句です。
そもそも、3D映像で映画として十分面白い作品を作るのって結構難しいんじゃないかと思う。それはつまり3Dではない状態で鑑賞してもちゃんと面白い映画ってことになるんだけど。
今んとこ3D=観客を驚かせるって感じの認識だからなおのこと難しいだろうなあ。
3Dじゃなくっても十分観客が驚くような映像にはそもそも3Dを使う必要がなくなるし。
もっと3D技術が浸透して、「ああ3Dちょっと使っとく?ま、別にあってもなくても良いけど」みたいな扱いになったら、3Dを効果的な演出として取り入れた、映画としても非常に上質な作品も出てくるかもしんないけど。
今は3Dという技術に、映画全体が振り回されてしまっているという印象。
「ファイナルデッドサーキット」を観て一番感じたのは、そこはかとない遊園地っぽさ。まだ真新しい技術だからか、3Dありきって感じでストーリーが進むので、映画というよりは寧ろアトラクションなのだ。
そんで観客は「驚いてあげてる」感じ。
内臓飛び出るんだろうな~
両足引きずり込まれるんだろうな~
トラック突き刺さるんだろうな~
あーほらねやっぱりね いやあ凄いねえ飛び出すねえ
そんな感じ。
映画観るつもりで行ったら肩透かしを食らうので、ジョイポリス気分で行くと良いかも。ちなみに上映時間80分くらいしかないのでつくづく無駄金払ったなあという気分にさせられます。だからといってあんなもん120分見せられても困るけど。3Dは恐ろしく目が疲れるので短めにしたのかもしれませんね。
あと、3Dだからか字幕がつけらんないらしい。だから吹き替えしかやってないんだけど この吹き替えがほんっと酷くてさあ
ココリコ 田中直樹(主人公)
里田まい(ヒロイン)
はるな愛(おっさん)
お前ら一生吹き替えやるな!と叫びたくなるクオリティ。いい加減プロ使ってくんないか。なーーーー !!
いつも思うんだけどこういう、タレントの吹き替えって誰が得してるんだろう。長い目で見て、起用されたタレント達にとってもただの闇歴史となるだけだってのは分かりきっているというのに。シンプソンズの悪夢を忘れたのか!
まあ、吹き替えの事を差し置いても映画として駄目な出来でした。
シリーズ中で一番つまらないという意見も聞いたので、ファイナルデッドコースターとかはちゃんと面白いんじゃない?と無責任にお勧めしておきます。私は観てないし、観ないけど。
実は柳良優弥カムバックと聞いて、地雷を承知で「戦慄迷宮3D」は観に行くつもりでいたんですが、今回の事で完全に懲りたのでやめときます。
三池祭が終わったので、他の映画について色々。
つってもこれは今日やっと観たもの。上映中もずっと観たかったんだけど、残念ながら機を逃し続け、さらにレンタル屋に並んでからもしばらく意図的に機を逃し続け、新作のラベルが外れて漸く手に取ったという まあ要するに私がケチだという話です(だって新作高いもん)。
で、あらすじ。
落ち目のアクションスター、ジャン=クロード・ヴァン・ダム(本人)。48歳になった今ではアクションも思うように行かず、年下の映画監督からは全く敬意を払われず、私生活では離婚した妻と娘の養育権を取り合っているが、相手方の弁護士には彼が出演した映画のDVDを並べられ、「こんな非人道的な映画にばかり出ている男に子どもを育てる資格など無い!」と攻撃される。そんなある日、弁護士から「小切手が不渡りになった。今日の昼までに振込みが無かった場合、僕は君の弁護から降りる」と言われたヴァン・ダムは、慌てて金を下ろす為郵便局に入る。そこに強盗が、人質を取って立てこもっているとはつゆ知らず…
実はジャン=クロード・ヴァン・ダムの出演している映画を、本作以外1本も観たことが無い。
本人についても、引田天功と噂があった人だよね?ぐらいのイメージ。全くファンではない。
それでもこの映画の題名と軽いあらすじを聞いただけで「な、なんて面白そうなんだ」と興奮してしまったのは、ひとえに本人=役柄というメタ的な面白さと、ヴァン・ダムという役者の「何か知らんけど多分凄く強いってだけで俳優としては相当つぶしの効かない人」という分かりやすいイメージ、それとあらすじを聞いただけで大体どうなるか分かってしまう展開の単純さが、非常にデフォルメされたヴァン・ダムというキャラクター性にぴったりとフィットしていたからだと思う。落ち目だけど強いアクション俳優が、実生活で強盗騒ぎに巻き込まれる。
こ、これは間違いなく映画的名誉挽回フラグ!
落ち目のヴァン・ダム→強盗倒す→人気復活
言ってみれば「グラン・トリノ」のような。「レスラー」のような。落ちぶれた男たちが、下り坂の途中でふいと火を入れられ再び燃えたぎる。みたいなそういう展開だろう間違いなく。と思って観る訳ですよ。普通そうでしょう。
ところがそうはならないんですなあ。
ヴァン・ダムが自分自身に対して極めて客観的な視線を持っていることは確かである。強盗一味に映画マニアがいるんだけど、その男と交わす会話が完全に自虐ネタ。
「次回作、ネットで見たぜ。紫の何とかってやつ。あれはいつ公開なんだ?」
「いや、あれはなしになった。主演を他の役者に取られたんだ」
「マジかよ!そいつ誰だ?」
「(スティーブン・)セガール」
「…あー…でもあんな奴よりあんたのが100倍良いのに」
「仕方ない。あいつは今回ポニーテールを切ったらしいからな」
セガールのポニーテールがやけに強調されていて笑った。
ある程度ヴァン・ダムのファンであるはずの男が次回作の題名を覚えていないというところも自虐的で良い。ヴァン・ダムという役者に対して世の中が持っている興味の薄さを絶妙に表現している。
「ジョン・ウーは恩知らずだよな。無名の時はあんたが映画に出て盛り上げてやったのに、売れたとたんあんたを起用しなくなった。あんたがいなけりゃ、あいつ今もきっと香港でハト撮ってたぜ!」
「いや…しかし「フェイス/オフ」は傑作だった」
「それにもあんたを起用しなかったじゃないか」
なんて会話もありました。ハトwwwwwwwwwwwまたハトに突っ込まれてるジョン・ウーwwww
しかし、ここまでヴァン・ダムというキャラをデフォルメしておきながら、映画の途中で突然ヴァン・ダムは劇中から抜け出てナレーションを挿入する。不意に舞台は郵便局内部から、後ろにライトや小道具が無造作に置かれたスタジオに変わる。そこでヴァン・ダムは、映画を見ている観客に向けて「これは映画ではない」と宣言するのだ。
そして強盗事件は、嘘のようにあっけなく収束する。ヴァンダムは大した活躍もしないまま、予想外の展開で物語は進む。
これが仮に、ヴァン・ダムが強盗一味を華麗に倒し、人質を解放し、そして野次馬の前で両手を上げて歓声を一身に受ける、そんな終わり方をする映画だったら、それはおそらく観客が望んだ結末だったろうし、映画的なクライマックスをきちんと持った、非常に分かりやすいエンターテイメント作品となっていたことだろう。
しかしヴァン・ダムはそうしない。それをしてしまったら、ジャン=クロード・ヴァン・ダムという役者は終わってしまうからだ。綺麗なエンディングを持ち得てしまうからだ。
ヴァン・ダムは最後で、自分自身が映画の中のキャラクターとして完結してしまうことを拒否する。
それはまだヴァン・ダムが、ひとりの俳優として終わってはいないと宣言することと同義である。
「グラン・トリノ」がある意味でクリント・イーストウッドという役者の遺言であったのとは対照的に。
「レスラー」で、ミッキー・ロークが華麗なカムバックを声高に宣言したのとは違って。
ジャン=クロード・ヴァン・ダムはまだ終わっちゃいないぜと、俺はまだ此処にいるんだぜと。
そう言いたかったのではないかなと私は思う。
まあさっきも言ったように私この人の作品1本も観てないんだけどね。
予想していたような、観る前に期待していたような、単純なメタフィクションストーリーではなかった。寧ろメタフィクションという様相を呈したフィクショナルな物語でありながら、リアルなジャン=クロード=ヴァン・ダムという俳優の声明であり、覚悟表明であった。私のような、アクションヒーロー全般にまったく関心を持っていない観客をして、彼に対して少なからぬ興味を持たせる そのきっかけとなるような作品だった。
この作品が彼にとって、俳優としての新たな世界を切り開く起爆剤となることを祈る。
願わくば次回作の主役を、セガールと競わずに済むように。