くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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これ飲みながら観た。ミルクだけに!
でも有楽町のナチュラルハウスにはフツーの牛乳が無くて豆乳だけは数種類取り揃えてあんのおかしくね?これがマクロビオティックなの?
「マイノリティ」というバッヂを胸に刺して歩けるのは、かつてその胸に深い傷を負った記憶を持つ者だけだ。
全ての人間に希望を与える為に全身全霊をかける事が出来るのは、他ならぬ自分自身がその希望を欲したが故だ。
昔高校で政治経済の教師が、「政治に"BEST"は無い。あるのは"BETTER"だけで、われわれに出来るのは その時々に選択しうる"BETTER"を模索するだけ。」と私達に教えた。
だとするなら、ハーヴェイ・ミルクが市会議員として行ったその全ては、常に自分以外の誰かにとっての"BETTER"を押し付けられ、またそれを甘受するという選択肢しか無かったマイノリティの人々に、初めて「NO!」と言う方法を教えたという事に他ならないのではないか。
「君は短期間のうちに候補者として認められようとしてるが、それは無理だ。市民に受け入れられるにはある程度の時間が必要だよ。」
そう忠告した男にミルクは言う。
「候補者は僕ではなく、活動そのものだ。僕はその活動の一部でしかないんだよ。」
彼はその事を証明した。彼自身の死によって。
彼を支持し、彼とともにカストロ地区―ここはハーヴェイ・ミルクが政治家としての一歩を踏み出すきっかけとなった場所であり、彼の行動によってアメリカ中のゲイが集まってくる、いわばメッカ(聖地)となっていた―を行進し、彼とともに憤った人々が、今もマイノリティの権利を守る為の活動を続け、そして彼ら自身が今や自由を希求する運動のアイコンとして世に知られる存在となっている。彼らこそが、ミルクの残した「生ける足跡」となった。
しかしこの映画が真に誠実なのは、常識やマジョリティの権力に苦しめられ、それらからの解放を求めて活動してきたミルク自身が、民主主義におけるマイノリティの持つ絶対的価値―マイノリティという名の「聖痕」をかさに政治的な敵を排除しようと動いた事をはっきりと描写している点である。
「君には訴える要素がある。ゲイである、マイノリティであるという要素が。僕には無い。君が羨ましいよ。」
ミルクと対立する市会議員、ダン・ホワイトに向けられたこの台詞をミルクは否定したが、皮肉にも彼自身がこの言葉の持つ多少の正当性を証明する事になる。
次々と革命的に条例を可決させ、一躍時の人となるミルクとは逆に、公約も守れず一向に効果を出せない事を苦にしてダン・ホワイトは辞表を出すが、市長は彼を思いとどまらせ、再び市会議員に戻るよう勧める。
当時の市長はリベラルで、ミルクの運動にも協力していたため、宿敵であるホワイトを庇う市長の行動にミルクは腹を立ててこう怒鳴ったのだ。
「ホワイトを再び市会議員に任命してみろ、アメリカ中のゲイはあんたに背を向けるぞ!」
そして皮肉にも―いや、物語としてはこれ以上ない「正しさ」とも言うべきか―この言葉がダン・ホワイトの持つ拳銃の引き金を引く事になる。撃鉄を起こす音はまさしく、ハーヴェイ・ミルクの弔いを告げる鐘の音。
これは ある一人の政治家、ハーヴェイ・ミルクの人生最後の八年間を語る映画ではない。
それはこの映画の一部に過ぎないし、ではこの映画とは何か?と問われても、その答えを私は持たない。
月並みな言い方になるけど、それはこれを読んだ人達が自ら映画館に足を運び、自分の目でこの映画を観る事でしか見つからない。
私には関係の無い事だ。 もちろん、この作品を見たあらゆる人の感想は知りたいけど。
ただ、各々が各々の言葉で語る事でしか「運動」は起こらない。ちょうど劇中でミルクが、仲間の運動家に語ったように。
「メモを見ずに、自分の言葉で、彼らの怒りを代弁するんだ。」
それは彼らに残された唯一の戦う手段であり、また同時に我々が世界を動かす最初の手段でもあるのだ。
もっと早く観るべきだった。
力強くオススメ!
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