くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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二次創作物という言葉は著作権法上で使われている言葉ではないが
一応広く認知されている用語としてここで使う。
二次創作物と二次的著作物の違いは、原著作者の許可を得ているかいないかである。
許可を得ていないものが前者で、俗に言う同人誌などの「パロディ」であり、許可を得たものが後者。あらゆる原著作を基盤とした映画化やドラマ化、アニメ化漫画化などを指して使われる。
で、ろくにこの事に関して知識も無い私が悪びれずwikipediaを引用してみると(出典も明記してあることだし)
前者(二次創作物)はさらに4つに分類することができる。らしい。
- 著作物そのままを用いた作品(複製権の侵害)
- 著作物を改変しているが創作性が認められない作品(複製権+同一性保持権の侵害)
- 著作物を改変しており創作性が認められる作品(翻案権+同一性保持権の侵害)
- 著作物を改変し創作性が認められ、原作の本質的特徴を失っている作品(別個の著作物とみなされるため合法)
「原作の本質的特徴」ってのもずいぶん分かりにくい話だな、というのはともかく
二次的著作物と二次創作物を分ける上で問題になるのは法律的な点のみであって
当然のことながらそれぞれの作品的価値、については不問とされているということで
要するに面白いかつまらないかは二次的著作物と二次創作物の相違点には関係しないわけ。
面白くてもつまんなくても原著作者の許諾を得ていれば二次的著作物。
優れていても劣っていても許諾を得ておらず、また原作の本質的特徴を保持していたらそれは違法の二次創作物。
んで、まあそれは我々は一般読者なので面白いかつまんないかで物事を判断しようとするけどもさ。
それを作り出す人たちにはそんな事気にせずに、もっとあざとく
「原作者の許可取って作ってる俺たちに何か文句でもあるわけ?」
っていう志でやってほしかったかもしんない
(以前私がアップしたエントリといささか矛盾してるかもしんない)
なーーーーーーーーーーーー
っていうのが感想です。
簡単に言うとこの小説を読んでの印象は
二次創作物になってしまう事を極度に恐れた結果作り出された二次的著作物
って感じ。
あまりにも当たり障りの無い内容で
ちょっと…何て言ったら良いんでしょうか。
食い足りない…
というのが正直な感想です。
この小説版では原作がドイツのギムナジウムを舞台にした物語であるところを、戦前だか戦時中の日本における寄宿舎(多分大学の)に舞台を変えて描かれているんだけど、これがまたびっくりする程「いつ頃の、日本の何処らへんなのか」ってのが分からない。あと登場人物の人となりも全く分からない。
メインキャラクターのトーマ、ユーリ、エーリク、オスカーはもれなく出てくるし、名前も一緒なんだけどどうも違和感が拭えずに読み進めた。
…日本が舞台なのに名前が一緒?って思いましたか?
そうなんです一緒なんです。正確に言うとこれらはワーグナ教授が生徒達につけた渾名だという設定なのだね。そうかだからドイツ語なんだね!ってあほかーーーーーーーーーーーー
森先生それはちょっと無理が!ええい離せ!こうだと言ったらこうなのだ!
というやりとりが編集者と作家しぇんしぇいの間であったかどうかはともかく(ねーけど)
…いやあ 読んでいて分かったのはですね。
きっと森博嗣って人はほんとに「トーマの心臓」が大好きなんだろうなあってことです。
おそらくあの世界観や人物設定、交わす会話や挿入される詩的モノローグ、作品を構成する全てが好き過ぎて、好きすぎるが故に、自分の著作がその雰囲気を壊すのが怖かったんじゃないかなと思うんですよね。
んでおっかなびっくり書きすすめたんじゃないか。なあ。どうかなあ。いや分かんないけどね作家さんが何を考えて書いてるかなんてさ。
んでさっきも言ったとおり、驚くほどこの物語がどんな舞台で、どんな登場人物によって作られるお話なのかが全く見えてこない。萩尾望都の漫画ってのは、玩具箱みたいにあらゆるガジェットが挿入されているという印象が私の中にはありまして。例えばポエムのようなモノローグだったり、美味しそうなお菓子やお茶や食べ物だったり地名だったり、マザーグースの詩だったり。
その細部がいかにも可愛くて洒脱で、そこが萩尾望都漫画の魅力なんじゃないかと思うんだけど。垢抜けてるというか。
それと登場人物が良く旅をしているのも印象的だったりする。「ポーの一族」はある種旅行記みたいなもんだし、「残酷な神が支配する」でも互いの仲を修復するためにイアンがジェルミとサイクリングの旅を提案していた。
私が考える中で、萩尾望都作品の非常に印象的な特徴としては、登場人物たちがどこで、何をしているのか。あるいはどんな文化に囲まれて生活しているのか、を丁寧に描きだすという点がまずあるわけで その点について言うと小説版「トーマの心臓」は、登場人物達を取り囲む世界があまりにも曖昧でぼんやりとしていた。
もっと背景や世界観を詳細に作り込んでいたなら、原作と小説版との相違点ももっと鮮明に浮かび上がり、小説版の独自性もはっきりしたのではないかと思う。
でも、あれですよね。
この企画、何て言うかあまりにも読者の期待を煽り過ぎたんじゃないかと思いますよ。
だって今更、かの名作「トーマの心臓」を小説化するなんて、あんまりにも思わせぶりなニュースだし。
こんなビッグタイトルを小説にするってことは、そこに物凄い意味が無いと実現するわけがない!
というか もっとこう、斬新に「トーマの心臓」を調理し直したに違いない、そうじゃないと今出版する意味なんてないもん!
って思っちゃいますよ。読者的に。
ほんとにただ小説化しただけなんだもんなあ…しかもサンマのあぶらをそぎ落とすような調理法。
あーあ何か野暮ったいなあ。と思いつつハードカバーひっくり返したら
「ダヴィンチブックス」の文字が。
…ああ…またあの会社か…と納得して本を閉じました。
何度も言うように私は森さんの小説を読んだ事がないのであれなんですけど。
発表から何十年も経った名作を今あえて小説化するというのなら。
なおかつ著作者からきっかり許可を取っての企画だと仰るなら。
もっとどっかりと腰を据えて、偏執的な愛を存分に注いだ作品にしていただきたかったです。
この小説取り澄ましててつまんない。
要するにこの一言が私の感想です。
関連エントリ
初めてこのニュースを聞いた時の言い草
→なぜ今更… 「トーマの心臓」小説化
モー様つながりで ポー語りその1。
→初椿は眠り姫の部屋に
ポー語りその2。
→昔からバラは愛の花だというわ きっと思いは通じてよ
↑リンクついでにちょっと書き直して、以前のよりちょっと面白くなってます。
ほんのちょっとだけ…
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