くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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恐ろしい程に無沙汰をしております。
これで私が少なからず有名な人間であったなら
死亡説が囁かれる程度には無沙汰です。
またおめおめと戻って参りました。
すいませんねどうも。
最近映画を観る本数はめっきり減りましたが
(近所にある映画館は軒並み経営を自粛しているので)
相変わらず何らかの形でぽつぽつと観てはいる日々です。
今回の作品は録画したやつ。
あらすじ
銀行と製糸業を営み、美術品の蒐集を趣味としていた父を持ち、
幼い頃から絵画に親しんだ真知寿(まちす)は、当然のように画家を将来の夢として成長する。
が、父の会社が経営破綻。倒産に追い込まれた父が芸者と首を吊ったところから裕福な生活は一変する。
家・家具もろとも差し押さえられ、身一つで追い出されてしまった幼い真知寿と母。
母は亡き夫の弟夫婦に真知寿を預け、さびしい崖から身を投げて死んだ。
叔父夫婦の家から養護施設に送られ、早くに自立して新聞配達で生計を立て始め、
それから働き通しの日々。
そんな中でも、真知寿は絵を描き続ける。
結婚しても子供が出来ても
中年になっても、なお芽が出なくても
ただひたすら、真知寿は絵を描き続けるのだった。
実は、あんまり期待していなかったんだけど。
観てみたら予想よりも楽しめました。
テーマは極めて普遍的な事だと思います。
それは決して芸術家に限った話ではなくて。
人間には器があります。
それは夢や性格、思想などによって形象どられる
「その人」というかたち。
人々は少なからず、幾つかの選択肢からそれを選んで
人としてのかたちを形成して行きます。
あらゆるものの影響を吸収して、自分のなかで好ましいものとそうでないものの区別をつけながら
少しずつ一個人として完成してゆく。
この話の主人公・真知寿は「画家」という器を選んで、
その器に添うように自分の人生をシェイプしていくのだけど
彼が父の友人である画家に自分の絵を褒められたシーンの後に挿入される一文。
これが観客の心に重たい石を落とす。
「真知寿はこうして、将来画家になるという夢を持った。また、持たされた。」
父の趣味
父の交友関係
またその父から(と思しい)戴いた名前
幼い彼を取り巻くあらゆるものが、画家という夢を持たせたがっており、
果たして彼はその通りにしたのだった。
観客は思う。
真知寿の不幸に同情の息を寄せた直後に
きっと皆思うはずである。
「では自分は?」
自分の夢は果たして自分のものなのだろうか。
自分の今いる場所は、
数ある選択肢の中から選んだ道に起因する意思とは、
本当に自分自身の意志なのだろうか。
そんな疑問を観客の胸に残して、映画は終わる。
つまりこの映画は、観客に自問を促す映画なのだ。
この映画の面白いところは、主人公の真知寿に果たして才能があるのか無いのか、という点に
全く何の説明も為さないところである。
良い絵もあるし、褒められる絵もある。
でも馴染みの画商は一度も真知寿の素質について褒めることをしない。
時々「良いんじゃない?」程度の軽い褒め方はするけども、
それ以上は言わない。
その代わり、「才能無いからやめなよ」と言う事も無かった。(と思う。)
例えば真知寿がゴッホのような、「才能はあるのに認められない人」だったとするなら、
この物語は観客にとって「他人の物語」になる。
才能があるから売れなくても続けるのだ、というエクスキューズを
真知寿の人生に与える事になる。
それは真知寿にとって、そして何より観客にとっての救済なのだ。
しかし救済の手はのべられずに終わる。
何故なら救済とは答えに他ならないからである。
救われたいですか?
じゃやめときましょう。
それを踏まえてさえいれば、
結構おすすめ。
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