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くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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以前触れたセキシキ書簡ですが全く読んでません。正直全く面白くない・・・何故だ。日本を代表する文人の二人が交わしている書簡集だというのに。しかもあれがこれで萌え萌えなのに。萌え萌えのはずだのに。


というか以前から割と疑問なんですが萌えだけで作品を鑑賞するのって結構体力使いませんか。で鑑賞し終えた後に何かしらの虚無感が胸をさらいませんか。ああ何も残らなかった・・みたいな。無益な事をしたなあ。っていう。これなんだろうなー私あんまり萌えってのをわかってないのかもしんないなーまーわかってないならわかってないでそれは全然何の問題も無いんだけど。萌えゲージって消耗激しいっつか割と一瞬だから、長続きしないというか。或いはその作品そのものを浪費してしまった・・・っていう感じも少なからずある気がするんですけど。結局ある程度邪道な楽しみ方。っていう認識があるのかもしれない。まーこれは私の中での話ですが。

鑑賞するという行為には少なからず努力が必要であって、それは要するに作品の内面を理解するための努力だと私は思うんですが、つまり簡単に、陳腐な言葉で表すとそれは愛ってやつに言い換える事が可能なのではないかって事でして。

で、誤解を恐れずに言えば「萌える」ってのはある意味で言うと「愛する」とは全く逆の行為なんじゃないかなあ。いや別に「萌える」ことを否定してるわけではって今さらそんなフォローしてもちょっと胡散臭いので、まあ肯定はしてませんがな。と言っておきます。でもこれあくまで「私の場合」つー話ですからね。


そんでから、また分かりづらい文章になると思うんだけど「愛する」とゆーのはいかに世の中にある枠組みからその作品、対象を外して、それそのものをありのままを理解するかってことだと思うわけですよ。つきつめて言ってしまえば、世にある物語も音楽も絵も何かしらの枠にあてはめる事が出来るものばかりで、陳腐に単純に理解しようと思えばいくらでも出来るわけで。でもそうじゃないだろと。「要するにライ麦畑の日本版だろ?」とか「ちょっと尖ったジェイムズ・プラントだよね」とか「かっこつけたルパンでしょ」とかそういった理解の仕方はあまりにも愛が無いじゃないですか。同じ理由でよくツタヤでやってる「あのアーティストが好きならこれもおススメ!」ってのがあんま好きじゃないんですがまたそれも詮無きこと。似てるから好きとは限らないよね。別に。何かを好きになるってことはその対象をかけがえのない唯一無二のものと信じたいってことであって、これとこれ似てる!って言われたらテンション下がるやんな。フツー。ちなみに「かっこつけたルパン」てのは私がカウボーイビバップを見ていつも思う事です。愛が無いって?まあこれが無いんですよ。恥ずかしながら。(自分の事オンザ棚)

一方、「萌える」とゆーのはこれの逆で、言ってみれば既成の枠に作品をあてはめ、その類似性を見いだした上でそこに刺激を感じることにほかならんのではないかなと思うんですよ。兄弟に萌えるとか下克上に萌えるとかツンデレヤンデレクーデレきりがないので以下略。いや萌えてる人たちは作品を愛してない!って言いたいわけじゃないんですけど。何だろうねほんと。ただ萌えってものはたいていにおいて「キーワード」を必要とする心の動きであって、でもキーワードを探すってことは即ち 「○○というキーワードを含んだ作品」として対象を記号化することにほかならないわけで。

そして記号化するということはだ。自分自身、自我を作品の外に置くということになるわけだよ。
或いは自分自身も記号化してしまうという事もあるかもしれないが、記号になった自分自身は自分自身ではないわけで。
読書も絵画も映画も音楽も、等しく「体験」であるからして、自我抜きでは語れないじゃん。フツーに考えて。でも萌えには自我が介在する余地が無い。萌えとは常に、外から見る者の視点でのみ語られるものだからだ。だから、第三者的視点のままに享受するいかなる体験も いつだってただむなしいのだ。(しつこいですがこれはあくまで私の場合)


そういうわけで、やっぱり私は萌えについて多くは語れない。その権利が無い。だからセキシキ往復書簡集がこのまま全部読まず本棚の奥に押し遣られても、一体誰が私を責められよう。そういう話でした。


こんだけ書いてー!!結局言い訳ー!!ジョンレノーン!!




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今、ナウでヤングな腐女子の間では
岩波文庫から出ている「漱石・子規往復書簡」が大人気だ。
「だ」とか言い切ってるけど大丈夫だよその筋からの情報だから。


まあ夏目漱石の作品にそっちの萌えネタが多いという話は別に今に始まった事じゃあない。「こころ」とか良くそういう方向で語られてるのを目にするし。あと漱石作品に出てくる女性ってヒロインはあまりにも偶像的だしそれ以外の女は大抵露悪的だから何か両極端で親しみ湧かないんじゃない?あ、これいつものことだけど根拠とか全然無いから聞き流してね。

でも確かに漱石の文章で目を惹くのは男同士の会話にある。と思う。阿吽的な。テンポが良いんだなあ。台詞そのまま脚本に起こしたら小津安二郎の映画みたいになりそう。あのリズムは私にもかなり萌えですが。(聞いてない)

しかし今の萌えウエーブは留まるところを知らず、いつの間にか日本を代表する大作家たるご本尊にまで魔の手は及んでいたのでありました。まあ相手も相手なんだが。「朗君、妾と呼び合っていたセキシキ(漱石と子規の略称)萌え」とか「梅を活けて漱石が来るのをそわそわしながら待ってる子規カワユス」とか「30日間2人が同棲してた愚陀仏庵?きゃ~、ツアーくみたぁーい」とか「漱石タンの口ひげを一房口に入れてもぐもぐしたい」とか「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」とかネット上でのセキシキムーブメントはもうそらえらいことになっとるのですよ。まったくインターネットはパンドラの箱です。中で何が起こってるのかなんて傍からじゃ見当も付きません。

そもそも、死んだ人間の書簡なんていうプライベート極まりないもんを発表して良いもんなんでしょうか。プライバシーって、死んだ時点でなくなるもんなんですかね。ちょっと有名な人だったばっかりに生前の手紙を本にして刷られる、なんて考えると結構怖いもんがあるんですが。著作権だって50年は守られるというのに、閉じた世界でのコミュニケーションツールたる手紙なんてもっともっと長い間、というか永遠に守られても不思議は無いと思うんですがそこらへんどうなんでしょう。まあ実際出版されてんだから特に問題は無いってことになってんでしょうけど、自分の事に置き換えたらやってらんないですね。自分が死んだ後そんなことになってたら、多分あまりの恥ずかしさにもいっかい死にます。死因は憤死。
あまつさえ精神的死因にさえなりうるその書簡を読まれた上にホモ妄想されている漱石タンと子規タンには同情を禁じ得ないわけですが、逆にそこまで深い業を湛えた往復書簡って一体どんなもんなんだろうという好奇心も少なからずあり…そもそも純粋な文学的興味も無いではなく、漱石と子規の交友関係については江藤淳や他の評論家などもテーマにして本を書いているわけであるからして云々つーかもう良いよまだるっこしい分かったよ正直に言うよ




本屋3軒はしごしてゲットだよやったね★
萌~え~る~ゾォ~いや嘘まだ2ページくらいしか読んでない。ちゃんと読んだらまた書きます。

ついでにこっちも買ってみた。気になってはおりましたので。



しかし「こころ」より「行人」のが萌えるだろ常考。
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