くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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どんなもんであれ
オチをつけるのは
観てる人(読んでる人)
ってことで良いよね。
つータイプのものがすきだな。
と思った。
「こうこうこういう状況が
こんな具合に展開しましたよ」
とだけ言ってくれれば
「うーんなるほどな」って
考えるのは自分でできるしさ。
逆にじゃあどんな結末なら
「分かんなかった」って言う感想が
この世からなくなんのかね。
まーなくなんないんだろうね。というのが
「BABEL」の感想をネットで探して
いくつか読んだ私の感想です。
面白かったけどねえ。それなりに。
「バベル」―映画生活
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ジャック
家出をしたあなたが
マルセイユの街を
泣きそうになりながら
歩いていたとき
わたしがその
すぐ後を
歩いていたのを
知っていましたか?
これは高野文子『黄色い本』
についてのエントリですが
わたくし実は
高野作品に関しては
ずぶの素人です。
この語りつくされた
あまりにも有名な作品に
私なんぞが茶々を入れるのは
ちと恐れ多いのですが
まあ
ひよっこの言うことと思って
大目に見てくださんし。
家出をしたあなたが
マルセイユの街を
泣きそうになりながら
歩いていたとき
わたしがその
すぐ後を
歩いていたのを
知っていましたか?
これは高野文子『黄色い本』
についてのエントリですが
わたくし実は
高野作品に関しては
ずぶの素人です。
この語りつくされた
あまりにも有名な作品に
私なんぞが茶々を入れるのは
ちと恐れ多いのですが
まあ
ひよっこの言うことと思って
大目に見てくださんし。
http://www.shinchosha.co.jp/bunko/100satsu/
ケッ!!!
おとなげねーんだよこいつらのやり方はよー
集英社のやり方は「やっちゃたよワハハバカだ」くらいで済ませる無邪気さがあったけど
新潮のこれはちょっと笑えない。
デスノとかジョジョの表紙に対して「やだなあ」って思ってる人の気持ちを必要以上に煽った上で
その人らの気持ちを利用している気がする。
「そうだよね!文学ってもっと素晴らしいもんだよ!大庭葉蔵≠ライトだよ!踊り子はスタンド能力持ってないよ!!」って言いながら擦り寄って小銭掠め取るんだろ?はいはいはいはいはいはいはいはい
いとしょうこんたくまし。
褒めて使わす。うっそーん。
追記
んでまた昨日本屋行ったら新潮版の「こころ」売り切れてやんの。
むっかっつくわー!!(何で)
(07.29)
出ましたな文庫版。
面白いですよこれ。夏の読書におススメざんす。
1200円と文庫にしてはお高いですが
実物を見たら(あるいは手に取ったら)きっとその値段の理由が分かるでしょう。
町田康の本は根っこがきっかり文学だから安心して読める。
こんなもんが出来ましたぞなもし。
正岡子規(本名:のぼる)は病床で重度の床ずれに苦しんだ。膿んだ患部の包帯を替える際には、その激痛による絶叫が毎日隣家にまで聞こえたと言う。ちなみに当時の子規の隣人は近代ジャーナリズムの先駆者 陸羯南。

床ずれ という字を見るといつも子規のことを思い出す。
この言葉を使った歌を確か詠んでいたな、と思って探してみたらこんなのが出てきた。
薄衾(うすふすま)堅きが上の床ずれのいたやいたやに選歌忘れゐたり
子規は病床においての視界からはみ出すことなく歌を詠んだ人で、見えるものを過度な想像力で虚飾することなく、かつ躍動的に鮮やかに表現している。それらのイメージは色彩に富み、洗練されたモダンな描線をたたえ、それゆえにまた鮮烈に滲み出る痛みがある。素直な人だったのだろう。
しかしその飄々と、淡々とした佇まいは、激痛、苛立ち、焦燥、悲愴を伴う病床において(特に優れた、若い才能を伴った子規のような人間にとっての「病床」において)無気力、無関心、凪のような穏やかなものを持ち続ける、そんなありようでは決して辿り着ける筈のない境地である。
健康な人間が、健康な両脚で真っ直ぐに身体を支えているのではない。萎えた筋肉と、今にもくずおれそうなすかすかの骨と、ところどころ断絶したずたずたの神経と、ひび割れた皮膚を、修羅道を辿るが如く壮絶な精神力と、並の、五体満足な人間には想像も及ぶまいほどに、貪欲で哀しく、一途な生命力で 成形し、維持し、抗いながら支えているのだ。
考え始めると止まりません。とりあえずここで停止。
床ずれに苦しむ人が世界中から消えてしまいますように。
正岡子規(本名:のぼる)は病床で重度の床ずれに苦しんだ。膿んだ患部の包帯を替える際には、その激痛による絶叫が毎日隣家にまで聞こえたと言う。ちなみに当時の子規の隣人は近代ジャーナリズムの先駆者 陸羯南。
床ずれ という字を見るといつも子規のことを思い出す。
この言葉を使った歌を確か詠んでいたな、と思って探してみたらこんなのが出てきた。
薄衾(うすふすま)堅きが上の床ずれのいたやいたやに選歌忘れゐたり
子規は病床においての視界からはみ出すことなく歌を詠んだ人で、見えるものを過度な想像力で虚飾することなく、かつ躍動的に鮮やかに表現している。それらのイメージは色彩に富み、洗練されたモダンな描線をたたえ、それゆえにまた鮮烈に滲み出る痛みがある。素直な人だったのだろう。
しかしその飄々と、淡々とした佇まいは、激痛、苛立ち、焦燥、悲愴を伴う病床において(特に優れた、若い才能を伴った子規のような人間にとっての「病床」において)無気力、無関心、凪のような穏やかなものを持ち続ける、そんなありようでは決して辿り着ける筈のない境地である。
健康な人間が、健康な両脚で真っ直ぐに身体を支えているのではない。萎えた筋肉と、今にもくずおれそうなすかすかの骨と、ところどころ断絶したずたずたの神経と、ひび割れた皮膚を、修羅道を辿るが如く壮絶な精神力と、並の、五体満足な人間には想像も及ぶまいほどに、貪欲で哀しく、一途な生命力で 成形し、維持し、抗いながら支えているのだ。
考え始めると止まりません。とりあえずここで停止。
床ずれに苦しむ人が世界中から消えてしまいますように。