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くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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とりあえずすぐ忘れそうな事から書いとこうと思い、最近何故だか再燃した個人的ツボの話を。
まあ、鳴海かっこいいよねって話なんですが。
アフィが10巻なのは鳴海が一番かっこいい表紙を選んだだけです。
タキシードって・・・!オールバックって・・・!



常々思うのは、作者の思い入れってのが高まりすぎると大体作品に悪い影響を与えるよなあということである。
特定のキャラに作者自身が執着した結果、坂を転がり落ちるように物語が破綻したりご都合主義が幅を利かせたり他のキャラが空気化したりして一気に駄作への道を突き進んでいったつわものどもについては枚挙にいとまが無いので今更何も言わないが、
物語を創作する上でその架空世界においてのキャラクターというのは自分の子供も同じだという噂もあるわけで、いわば物語を創作する人たちというのは、母親としての自分とクリエイターとしての自分に板ばさみになりながら作品を作り上げていくわけだなあ。ということになる。
これは傍から見てもやはり大変なことには相違ない。母というのが感情をむき出しにして子供と関わる存在である(独断と偏見)反面、創作という行為には客観的理性的態度というのが不可欠である。
漫画家に必要な事というのはたくさんあるだろうけども、結局突き詰めて大事なのは 己を律し自分の作品を客観的に見つめる目なのであろう。バランス能力とも言うべきか。しかし描いている人間の思い入れを全く感じない作品というのも、
やはりそれは読んでいて退屈な作品と言わざるを得ないのではないか。とも思う。難しいのである。

藤田和日郎は、そういった難しい事から完全に解き放たれている。風呂敷を広げたりたたんだり、物語の収集をいかにしてつけるか、といった事に苦心惨憺している様は色んなところで(参考:吼えろペン)窺えはするが、作者としての立ち位置、キャラクターとの対峙法については全く迷いが見られない。
そこが良い、とも言えるし 人によっては暑苦しいところだろうが、その姿勢――主人公も脇役も悪役(特にこの人の漫画に出てくる悪役は凄まじい悪役ばかりである)も満遍なく愛する姿勢が、藤田和日郎という漫画家最大の特徴であることは疑いが無い。
大体話の終盤で読者たちは作者の愛情溢れる展開を目の当たりにし、その脇目もふらない慈愛っぷり救いっぷりに「やっぱりか・・・」と呟くのがデフォとなっており、その愛しっぷりがあまりにも衒いが無いので、読者の方も毒気を抜かれてしまう。好きなんだなあ。と素直に思う。
特にからくりサーカスのラストには、その作者からの無限の愛が溢れ出ており、不覚にも胸が熱くなった。やめてくれよ・・・こんなの卑怯だよ・・・

そんな藤田和日郎作品の主人公は、大体が一本気でバカ正直、不器用だけどまっすぐで、うじうじ悩まない男。である。からくりサーカスの準主人公、加藤鳴海もテンプレ通りの男。空手の使い手で腕っぷしだけが自慢のいかつい18歳。頭悪い。(多分)
それだけだと潮と被るんだけど、鳴海というキャラクターの特異なところは、「自分ひとりの力ではどうにも出来ない悲劇に遭遇し続けた」点にある。「うしおととら」の潮は、圧倒的な力に立ち向かい、その状況を打破することで成長していく少年であったが、鳴海は全く逆で、自分自身がいかに無力かを思い知らされ続けることにより、物語の核心に近づいていくという極めて酷な運命を背負っている。
karakuri.jpg鳴海の鍛え抜かれた広い背中は、かつて盾となり壁となり勝を守ったその背中は、ゾナハ病の完治と引き換えに与えられたあまりにも長く、惨いしろがね達の記憶―同胞の死、機械人形・フランシーヌ・エレオノールに向けられる深い憎悪と怒り、悲しみ―の重みに耐え切れず、ついに縮こまる。背を丸め、うつむいて 鳴海はエレオノールに「記憶なんざ悲しいだけだぜ」と語る。この、生命の水を媒介してしろがねからしろがねへ受け継がれていく「記憶」は「からくりサーカス」という作品の核を支える最重要項目である。しろがね達の記憶に限らず、仲町サーカスの面々(特にヴィルマの弟やリーゼの双子の姉、仲町の妻など)の「思い出」についてのエピソードも多い事から、この作品は、記憶や思い出というものについてどう向かい合うかを描いた漫画であるとも言える。鳴海のこの一言には、本作に据えられた根本的なテーマが示されている。


この鳴海の苦しみ、悲しみは、真の主人公才賀勝が、周囲の人間に助けられながら、非力で泣き虫な少年から少しずつ成長し、強くまっすぐな心を持ち続けて正真正銘の(悪く言えば、あまりにもありがちな)少年漫画の主人公となっていくのと対比を為して色濃く描かれる。そこに加藤鳴海という存在の意義があるわけであり、個人的な事を言えば、私はそこにもうきゅーーーーんとなっちゃったのである。

あまり私自身、潮のような明らかな好青年に心惹かれる事は無い。あまりにもまっすぐすぎて正直すぎて、人間的興味を惹起されないのだ。「うしおととら」という作品は大好きだけど、潮の個人的なファンではないというか。だから、鳴海も特に好きなキャラではなかった。鳴海が決定的な闇を抱え込む事となった、アメリカゾナハ病棟編までは。
鳴海が暗くなっていけばなっていくほど、物語当初でのあの前向きさ、力強さが愛しくて愛しくて、生気を失っていく彼の瞳を見るだに可哀相で悲しくて―しかし鳴海が最初から最後までずっとただ明るく前向きなままだったらこんなに好きにはならなかったんだろうなと思うとつくづく自分の軽薄さに嫌気がさすわけですが、まあそれはそれとして、良いよねえこのキャラ。これは少年漫画には無い暗さ(それはある種の色っぽさでもある)を持っているなあと思う。「うしおととら」で奇麗事としての真実(奇麗事は決して嘘ではない。ただ共感を得づらいだけである)を描ききった作者は、「からくりサーカス」で自身の描いた作品に対する疑問符を思い切り叩き付け、そして見事に完結させた。潮が前作の中で「なんでもないこと」のように笑い飛ばし、看破してきた薄暗い部分、闇の部分に再度墨を塗り込め、その渦中へ鳴海を突き落とし、そして這い上がらせた。這い上がる為の道筋を、最後まで書き切った。この営みは、己の作品に極めて客観的に、時には否定的に対峙して新たな物語を引き出すという、いわば自問の作業であり、クリエイターの為しうる非常に有意義な、美しい仕事の一つであると個人的には思う。

「うしおととら」と「からくりサーカス」の間にある決定的な変化。私はそれを非常に好ましいものと見ている。藤田和日郎という漫画家がこれから作り上げていく世界に対して、更なる期待を抱いてしまう類のものだと捉えているのだが、これを読んだ皆さんはいかがでしょう。

しかし鳴海ほどのツボキャラはなかなか無いんだなあ。こういうキャラたくさん描いてくんないかなあ。
スプリンガルドに鳴海は出てるんだろうか・・(出てねーよ)







何か書いてる内にすげー大層な事になっちゃった。
もっとバカっぽくストレートに鳴海のツボどころを書きたかったんだけどな・・
まあまた次の機会に。

ついき

スプリンガルド買ったのでまたなんか書きたいと思います。
いやあ・・・あれは鳴海ではないよな・・・
顔だけだよ・・・(あれって・・・)
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