くしゃみしたらヘッドホンはずれた
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クリスピン・グローヴァー
・What is it?
・It is Fine!Everything is Fine.
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友達が観に行くっつーのでくっついて行って来た。
いやー。しかしほんとにイーストウッドの演じる頑固親爺は愛くるしいねえ。今回は特にそうかな。
コワルスキの隣に引っ越してきた家族は、ラオスやタイ、中国に暮らしているモン族の一家。彼らとのコミュニケーションには、今まで知らなかった種族の慣習やマナーがあって、それらをおっかなびっくり学びながらぎこちなく関わっていくコワルスキが何とも可愛い。
コミュニケーションってのは、元々はそういうもんだったんだなあと思う。新しい友達を作るにしろ、職場や学校に慣れていくにしろ、みんな最初はおっかなびっくりで、相手が何考えてるのかわからないまま少しずつ関係を作っていくものだし。お互い知らないことや分からないことがあって、そんなつもりもなく相手を怒らせたり困らせたりするのは当然のことで、その後いかに関係を修復するか、が 人間関係を築くってことだ。
それをコワルスキは、人生終盤に再び教えられたんだと思う。自分の孫くらいの年の、しかも異国の子等に。
それと、やはり思うのはグラン・トリノについてだ。
で、「グラン・トリノ」である。
先述の通り、イーストウッドの映画はその時々の彼自身が下す決断そのものだと私は思っている。そしてその決断は常に
「法律なんざ糞くらえだ。俺は好きな奴のためにしてやれる全てをしてやるんだよ!」
てな具合であったわけだ。今までは。
それが、今回は違った。ハッキリ違った。
いや、正確に言えば違わない。根幹を流れる熱い思い、意思は今までの決断、つまり今までの作品と全く変わらないものだ。
でも違う。
もっと言えば、本作の中盤でコワルスキのとる行動こそが、今までの彼の決断そのものだった。いつもの彼なら、あの行動を以て決断としていたはずだ。
しかし本作では、その行動が彼と彼の隣人に決定的な悲劇をもたらす事になる。
そしてコワルスキは苦しみ、自分を責めに責め、やがて気付くのだ。自分の罪と向かい合う事がいかに辛いか。だからこそ人々は教会に行き、懺悔するのだということを。
亡くなった彼の妻が、自分が死んだら主人の懺悔を聞いてやってくれと若い神父に頼んでいた事を彼は苦々しく思っていた。
「主人は朝鮮戦争で人を沢山殺した事を悔いてるの。」
妻が神父にそう打ち明けていた事も。
その神父が何度家に訪ねて来ても、決して懺悔をしようとはしなかった。
その彼が、物語の終盤に漸く教会に行き、懺悔室に入る。
「神父様、俺は悪い人間だった。一度だけ、女房以外の女とキスをした。息子たちにも優しくなかった。…上手に接する事が出来なかったんだ。」
いくつかの懺悔を終えて、彼は立ち上がる。神父は面食らう。コワルスキは、悲劇を引き起こした自分の行動を、或いは戦争での事を終に口にはしなかったからだ。
「それだけ?」
「それだけ?ずっと気にかかっていた」
「貴方の心に安らぎのあらんことを」
コワルスキは振り返る。
「俺の心は安らいでいる」
…正直 ここまで書いて本作の魅力が十分に伝わっているのか分からない。もっと端的に良いところを紹介しようと思えば出来るんだとは思うがどうなんだろう。
例えば、コワルスキが戦争で人を殺した事について懺悔をしなかったのは、その罪について決して許されず、責任を背負い生きていく事を選んだからだ。とか
神に告解するという方法ではない、別の方法で自分の罪に決着をつける為だ。とか
そう説明しようと思えば出来る事かもしれないが、そういう事はむしろ説明すべきことじゃない気がする。
言えるのは、本作がイーストウッドの出した堂々たる結論であり、もっと言えば遺言であるということ。そしてそれは、今までのどの作品とも違う境地、言わば「遺す者」としての視点をイーストウッドが獲得したことの証明だということだ。
ストーリーがありきたりだとか、展開が読めるとか、そんな批評にはびくともしない威厳を持った作品だと思う。
躊躇せずに観るべし!
先述の通り、イーストウッドの映画はその時々の彼自身が下す決断そのものだと私は思っている。そしてその決断は常に
「法律なんざ糞くらえだ。俺は好きな奴のためにしてやれる全てをしてやるんだよ!」
てな具合であったわけだ。今までは。
それが、今回は違った。ハッキリ違った。
いや、正確に言えば違わない。根幹を流れる熱い思い、意思は今までの決断、つまり今までの作品と全く変わらないものだ。
でも違う。
もっと言えば、本作の中盤でコワルスキのとる行動こそが、今までの彼の決断そのものだった。いつもの彼なら、あの行動を以て決断としていたはずだ。
しかし本作では、その行動が彼と彼の隣人に決定的な悲劇をもたらす事になる。
そしてコワルスキは苦しみ、自分を責めに責め、やがて気付くのだ。自分の罪と向かい合う事がいかに辛いか。だからこそ人々は教会に行き、懺悔するのだということを。
亡くなった彼の妻が、自分が死んだら主人の懺悔を聞いてやってくれと若い神父に頼んでいた事を彼は苦々しく思っていた。
「主人は朝鮮戦争で人を沢山殺した事を悔いてるの。」
妻が神父にそう打ち明けていた事も。
その神父が何度家に訪ねて来ても、決して懺悔をしようとはしなかった。
その彼が、物語の終盤に漸く教会に行き、懺悔室に入る。
「神父様、俺は悪い人間だった。一度だけ、女房以外の女とキスをした。息子たちにも優しくなかった。…上手に接する事が出来なかったんだ。」
いくつかの懺悔を終えて、彼は立ち上がる。神父は面食らう。コワルスキは、悲劇を引き起こした自分の行動を、或いは戦争での事を終に口にはしなかったからだ。
「それだけ?」
「それだけ?ずっと気にかかっていた」
「貴方の心に安らぎのあらんことを」
コワルスキは振り返る。
「俺の心は安らいでいる」
…正直 ここまで書いて本作の魅力が十分に伝わっているのか分からない。もっと端的に良いところを紹介しようと思えば出来るんだとは思うがどうなんだろう。
例えば、コワルスキが戦争で人を殺した事について懺悔をしなかったのは、その罪について決して許されず、責任を背負い生きていく事を選んだからだ。とか
神に告解するという方法ではない、別の方法で自分の罪に決着をつける為だ。とか
そう説明しようと思えば出来る事かもしれないが、そういう事はむしろ説明すべきことじゃない気がする。
言えるのは、本作がイーストウッドの出した堂々たる結論であり、もっと言えば遺言であるということ。そしてそれは、今までのどの作品とも違う境地、言わば「遺す者」としての視点をイーストウッドが獲得したことの証明だということだ。
ストーリーがありきたりだとか、展開が読めるとか、そんな批評にはびくともしない威厳を持った作品だと思う。
躊躇せずに観るべし!
世に「男の世界」を表す映画数ある中で、クリント・イーストウッドの映画が私の中でぎりぎり理解出来る範囲の「男の世界」。
イーストウッドという監督は、映画化するに足るテーマをきちんと見付けてくる人というイメージ。堅実というか、間違いないというか。
なおかつ、描こうとしているのは常に「男の生きざま」であった。少なくとも「ミリオンダラーベイビー」までは、主役は頑固でシャイな一人の男。ていうかイーストウッド本人。
彼が演じた幾つかの役柄は本質的には同じ存在であると言って良いと思う。というか、全部ダーティーハリーだ。正確に言えば、リアルに年を取っていくハリーだ。 だからつまりイーストウッドだ(めんどくさいな)。
娘に嫌われているハリー(イーストウッド)。泥棒に入った先で殺人事件を目撃したハリー(イーストウry)。廃れたジムでトレーナーをしているハリー(イry)。
ある意味で、イーストウッドの映画を観る事はハリー=イーストウッドの人生を追体験する事であった。その時々のイーストウッドが、男として導き出した結論。「俺が今正しいと思っているのはこれだ!」と、イーストウッドは言い続けて来たのだ。だから彼の映画には、ストーリーや展開・構成などの技巧も超越した圧倒的な迫力がある。
硫黄島二部作、「チェンジリング」と続き、「ああイーストウッドの映画はこっちに行くのか。」と思っていたところに「グラン・トリノ」の特報が入って来て、だから私は驚いた。そして同時に喜んだ。
私はイーストウッド映画が好きなのだ。もっと言えば、イーストウッドの演じる「頑固でシャイな親父」が好きなのだ。決して良い人間ではない。正義感に溢れてもいない。家族にいたらほぼ間違いなく鬱陶しい。そんな人間が、ふと自分の視界を横切った「何か」を無視出来ずに立ち上がる。
俺には関係無い事だ。
俺が怒る筋合いじゃない。出来る事は何もない。
国や警察の仕事だ。
分かってる。分かってる。分かってる。
でも俺は許せねーんだよ!!!
これがイーストウッドの映画だ。と私は思ってる。
こういう映画が私は好きなのだ。
つづく
イーストウッドという監督は、映画化するに足るテーマをきちんと見付けてくる人というイメージ。堅実というか、間違いないというか。
なおかつ、描こうとしているのは常に「男の生きざま」であった。少なくとも「ミリオンダラーベイビー」までは、主役は頑固でシャイな一人の男。ていうかイーストウッド本人。
彼が演じた幾つかの役柄は本質的には同じ存在であると言って良いと思う。というか、全部ダーティーハリーだ。正確に言えば、リアルに年を取っていくハリーだ。 だからつまりイーストウッドだ(めんどくさいな)。
娘に嫌われているハリー(イーストウッド)。泥棒に入った先で殺人事件を目撃したハリー(イーストウry)。廃れたジムでトレーナーをしているハリー(イry)。
ある意味で、イーストウッドの映画を観る事はハリー=イーストウッドの人生を追体験する事であった。その時々のイーストウッドが、男として導き出した結論。「俺が今正しいと思っているのはこれだ!」と、イーストウッドは言い続けて来たのだ。だから彼の映画には、ストーリーや展開・構成などの技巧も超越した圧倒的な迫力がある。
硫黄島二部作、「チェンジリング」と続き、「ああイーストウッドの映画はこっちに行くのか。」と思っていたところに「グラン・トリノ」の特報が入って来て、だから私は驚いた。そして同時に喜んだ。
私はイーストウッド映画が好きなのだ。もっと言えば、イーストウッドの演じる「頑固でシャイな親父」が好きなのだ。決して良い人間ではない。正義感に溢れてもいない。家族にいたらほぼ間違いなく鬱陶しい。そんな人間が、ふと自分の視界を横切った「何か」を無視出来ずに立ち上がる。
俺には関係無い事だ。
俺が怒る筋合いじゃない。出来る事は何もない。
国や警察の仕事だ。
分かってる。分かってる。分かってる。
でも俺は許せねーんだよ!!!
これがイーストウッドの映画だ。と私は思ってる。
こういう映画が私は好きなのだ。
つづく