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58 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/12/17(月) 10:47:59.33 ID:i4Q/3cN3O
わ か る
このレスほど端的に私にとってのKey(アニメ)作品を言い当てたものは無い。
感動した。感動した勢いで昨日アメフト(社会人リーグ)決勝戦見て飲んで寝不足でふらふらなのにも関わらずツタヤ寄ってクラナド続き借りて帰った(しかも2枚)。アニメって寝る前に見るのにちょうど良いね・・長さが・・・
今日は飲み会も無い(予定)のでユニクロ寄って帰ってクラナド見つつヨガをやるぜ。
CLANNADは女が見てはいけなかった
CLANNADのアニメを見てるんだけども、頭の良さそうな女子が一人もいない。普通の知能すら持ち合わせていなさそうだ。頭がいいという設定の女子ですら、「わかんないです><」を酷くしたみたいな知恵遅れ。これが男ヲタの理想の少女像なのかと思うとゾッとした。
あと、自分のことをクールで頭が良いと思っていそうな主人公が心底キモイ。
イケメン(笑)スイーツ(笑)とCLANNADは人生(笑)(*1)は並列にしてもいいんじゃないかな。
ていうか自分wwwwwwwwww女wwwwwなんすwwwwけどwwww
ということで ネット上では割かし蛇蝎の如く忌み嫌われている「CLANNAD」をDVDで借りてぼつぼつと見始めています。イエェエエ~イ!!別に凄く面白い訳ではないのに何で見てしまうんだろう。Keyのせいか京アニのせいか・・・でも安心して見れるってのはあるね。絵が酷い、とかテンポが悪い、とか そういった心配はとりあえず無いからね。何だかんだ言ってあの絵は凄く丁寧だよなあと思う。あの動きの細かさには素直にほおーっとなる。
とりあえず多分全部見てしまうと思います。が。
・・・最早いっぱしの鍵っ子(*2)。
それにしてもネットにはスイーツ(笑)嫌いが多いっすね。
そんな目くじらたてんでも・・・・
いろんなところで目にするスイーツ批判は
ネッターの抱いている(と推察される)リア充に対する歪んだ羨望を如実に表していていっそ泣けます。
あ、うそうそ。そんな人ばっかじゃないよね(笑)知ってる(笑)
*1 「CLANNADは人生」
関連スレッドでCLANNADをエロゲと言われて否定した(実際このゲームはエロゲじゃなくてギャルゲ)ファンが「エロゲじゃないなら何なんだ」と聞かれて発した一言。これ以降key信者のイタタぶりを的確に表現した名言として頻繁にオンラインで取り沙汰された。
*2 「鍵っ子」
Kannon,Air,CLANNAD等を製作したゲームメーカー「key」の信者を指す言葉。keyだから鍵ね。
何か今更こんなことを改めて説明すんのは恥ずかしいですが念のため。
この日記を読んで特定の誰かを批判しているように見るのは皆様の勝手なので存分に邪推してください。
そんなつもりはないけどね。
何ならメルフォとかで「あの人の日記ですか!?」とか送ってくれたら楽しいよ。私が。
返事なんかはしないけどもね。
ってことで結論(個人的に)。
どうでもいいがココティンってほんと上手いこと言うなあって思った。
萌えでおっきするってことはやっぱり性欲なんだよきっと。萌えって。
性欲っていうか、情欲?
意外と愛ではおっきしないからね。
なんかほんとこのエントリ「病気」って感じで宜しいですね。ということで。
以前触れたセキシキ書簡ですが全く読んでません。正直全く面白くない・・・何故だ。日本を代表する文人の二人が交わしている書簡集だというのに。しかもあれがこれで萌え萌えなのに。萌え萌えのはずだのに。
というか以前から割と疑問なんですが萌えだけで作品を鑑賞するのって結構体力使いませんか。で鑑賞し終えた後に何かしらの虚無感が胸をさらいませんか。ああ何も残らなかった・・みたいな。無益な事をしたなあ。っていう。これなんだろうなー私あんまり萌えってのをわかってないのかもしんないなーまーわかってないならわかってないでそれは全然何の問題も無いんだけど。萌えゲージって消耗激しいっつか割と一瞬だから、長続きしないというか。或いはその作品そのものを浪費してしまった・・・っていう感じも少なからずある気がするんですけど。結局ある程度邪道な楽しみ方。っていう認識があるのかもしれない。まーこれは私の中での話ですが。
鑑賞するという行為には少なからず努力が必要であって、それは要するに作品の内面を理解するための努力だと私は思うんですが、つまり簡単に、陳腐な言葉で表すとそれは愛ってやつに言い換える事が可能なのではないかって事でして。
で、誤解を恐れずに言えば「萌える」ってのはある意味で言うと「愛する」とは全く逆の行為なんじゃないかなあ。いや別に「萌える」ことを否定してるわけではって今さらそんなフォローしてもちょっと胡散臭いので、まあ肯定はしてませんがな。と言っておきます。でもこれあくまで「私の場合」つー話ですからね。
そんでから、また分かりづらい文章になると思うんだけど「愛する」とゆーのはいかに世の中にある枠組みからその作品、対象を外して、それそのものをありのままを理解するかってことだと思うわけですよ。つきつめて言ってしまえば、世にある物語も音楽も絵も何かしらの枠にあてはめる事が出来るものばかりで、陳腐に単純に理解しようと思えばいくらでも出来るわけで。でもそうじゃないだろと。「要するにライ麦畑の日本版だろ?」とか「ちょっと尖ったジェイムズ・プラントだよね」とか「かっこつけたルパンでしょ」とかそういった理解の仕方はあまりにも愛が無いじゃないですか。同じ理由でよくツタヤでやってる「あのアーティストが好きならこれもおススメ!」ってのがあんま好きじゃないんですがまたそれも詮無きこと。似てるから好きとは限らないよね。別に。何かを好きになるってことはその対象をかけがえのない唯一無二のものと信じたいってことであって、これとこれ似てる!って言われたらテンション下がるやんな。フツー。ちなみに「かっこつけたルパン」てのは私がカウボーイビバップを見ていつも思う事です。愛が無いって?まあこれが無いんですよ。恥ずかしながら。(自分の事オンザ棚)
一方、「萌える」とゆーのはこれの逆で、言ってみれば既成の枠に作品をあてはめ、その類似性を見いだした上でそこに刺激を感じることにほかならんのではないかなと思うんですよ。兄弟に萌えるとか下克上に萌えるとかツンデレヤンデレクーデレきりがないので以下略。いや萌えてる人たちは作品を愛してない!って言いたいわけじゃないんですけど。何だろうねほんと。ただ萌えってものはたいていにおいて「キーワード」を必要とする心の動きであって、でもキーワードを探すってことは即ち 「○○というキーワードを含んだ作品」として対象を記号化することにほかならないわけで。
そして記号化するということはだ。自分自身、自我を作品の外に置くということになるわけだよ。
或いは自分自身も記号化してしまうという事もあるかもしれないが、記号になった自分自身は自分自身ではないわけで。
読書も絵画も映画も音楽も、等しく「体験」であるからして、自我抜きでは語れないじゃん。フツーに考えて。でも萌えには自我が介在する余地が無い。萌えとは常に、外から見る者の視点でのみ語られるものだからだ。だから、第三者的視点のままに享受するいかなる体験も いつだってただむなしいのだ。(しつこいですがこれはあくまで私の場合)
そういうわけで、やっぱり私は萌えについて多くは語れない。その権利が無い。だからセキシキ往復書簡集がこのまま全部読まず本棚の奥に押し遣られても、一体誰が私を責められよう。そういう話でした。
こんだけ書いてー!!結局言い訳ー!!ジョンレノーン!!
あー、ここまでだらだら書いて来たAIRですが、まあ何ですか、一応攻略し終えたのでそれなりに最後締めておかないとなって感じで ってもいつも通りこういう雰囲気でなんも考えず書き連ねるだけなんですがそこはそれ。
そもそもこれを書き始めたのは「泣けるかどうか」ってのが知りたくて、泣けなかったとしたら何でなのかってのを自分に問い詰めるためのあれだったわけで。あれ。
とりあえずの結論としては あー何はともあれ泣けませんでしたよ。まーそうだろうな。って感じなんですけど。ストーリー大体把握しちゃってたってのが痛いよねー。予備知識何もなしにプレイしたら泣けたかも。と思うけどいやそれはどうかなあ。言ってる傍からちょっと違う気がする。うーん。
でもあれで泣けるって人がいてもそれほど不思議ではないかな。というか。なんだろーストーリーが秀逸だとかそういう意味での涙もまーあるだろーけど、どっちかっつと夏休みとか白い雲とか青い空とかそういったものに誘われる涙のが実は多いんじゃないか。な?んん?
学生の頃のこと思い出すわー、的な。いや分からん。勘です。懐かしいところギュッとされると弱いからね!大人は!いや知らない。これも勘です。
また町並みもレトロで非常に宜しい。プレイヤーのなつかしボタンを連打する気まんまん、といった作り手の気概が感じられます。(思い込み)個人的にツボだったのはあの古い自動販売機!あの売ってるのが全部紙パックのジュースでボタンがちょっと大きくて、押すとべこべこしてるやつ。そこはかとなく懐かしい。
要するに何が言いたいのかといいますと、AIRにおける最大の泣きツボってのはノスタルジーなのではないかな。という話なんですよ。遥か昔の夏休み。暑くて眠たくてお腹空いて、意外とする事何にも無くて、バカみたいに長い夏休み。自分の中の記憶にある夏休みに、観鈴や往人や晴子がいて、そしてやはり神奈や柳也もいて、相変わらず大した事をするわけでもなく、川で遊んだりすいかを食べたり空を見たりしながら一日一日が過ぎて行って
しかしある日唐突に夏休みは終わるわけだ。ぱっつりと、現実から切り離したかのように。当たり前のように存在していた少女が死んでしまうのと同時に。
最早手が届かない。夏休みと観鈴ちん。両方遥か遠くにあり、しかしつい先ほどまではすぐそこにあったのである。だからこそ悲しいのではないか。夏休みっつーもんは。
そしてその悲しさを我々は嫌というほどに知り尽くしているのである。なぜなら我々は大人だからね!
だから、あのエンディングを見て泣く人ってのは、幼い頃の夏休みを思い出すことのできる、要するに大人ってやつ。なんじゃないかな?と思いますよ。
だから私が泣けなかったのは、多分泣くには若すぎたからだと思うんだよね。(濁りの無い目で)
ともあれ季節はそろそろ梅雨入り。これが明けたら、また夏が来るわけです。
私のAIR記もひとまず終了。ここまで読んで下さった人、ありがとうございやした。
へれへれ。
ちなみにアニメ見てて一番ぐっと来たのは敬介の
「夏の終わり 僕の休暇も終わりだ」という台詞。
何かなあーこの台詞良いんだよなあー見上げてる空がまた青くてさあー
キャラウザいけど台詞は良いんだよほんと